ヨーロッパ人による征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/19 06:47 UTC 版)
「コロラド州の歴史」の記事における「ヨーロッパ人による征服」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「フランス領ルイジアナ」、「ルイジアナ買収」、「メキシコ独立革命」、および「米墨戦争」も参照 この地域を訪れた最初のヨーロッパ人はスペイン人のコンキスタドールだった。1598年7月11日に、フアン・デ・オニャーテがリオ・グランデのプエブロ族の中に、後にスペイン植民地サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコとなる所を設立した。スペイン人は後にコロラド州となる場所のような北方まで入植しなかったが、この地域にすむ先住民族としばしば交易した。 アメリカ合衆国は1803年のルイジアナ買収でフランスからロッキー山脈の東側地域の領有権を獲得した。合衆国の領有権主張はスペインがサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ植民地周辺の広大な地域が主権を有する交易地帯だという主張と対立した。1806年にゼブロン・パイクが合衆国の偵察遠征隊を率いて論争のある地域に入った。パイクとその隊員は翌年2月にサンルイ渓谷でスペインの騎兵隊に逮捕され、チフアフアまで連れて行かれて、7月にはメキシコから追放された。 1810年9月16日、ミゲル・イダルゴ・イ・コスティーラがメキシコのスペインからの独立を宣言した。メキシコ独立戦争が長引くと、合衆国は1819年のアダムズ=オニス条約でアーカンザス川から南と西の領域に対する領有権をスペインに譲って、同時にスペインからフロリダを購入した。1821年8月24日に調印されたコルドバ条約でメキシコは遂にスペインからの独立を勝ち取った。メキシコはスペインの領有権主張を引き継いだ。メキシコ人交易業者は北にも向かったが、メキシコ人開拓者は合衆国が1850年にユト族と休戦条約に調印するまで北緯37度線より南に留まっていた。 1832年から1856年の間、フランス人やアメリカ人を含み多くの交易業者、罠猟師および開拓者がアーカンザス川沿いやフロント山脈近くのサウスプラット川沿いに交易基地や小さな開拓地を設立した。著名な交易基地としては、アーカンザス川のベント砦やプエブロ砦、サウスプラット川のセントブレイン砦があった。先住民族から提供される主要交易品はバッファローの毛皮だった。 アメリカ合衆国は1847年にメキシコを侵略し(米墨戦争)、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約でメキシコの北部領土を放棄させた。このことで南ロッキー山脈の全てがアメリカ人開拓者に開放された。合衆国はその地域を1850年に創設したニューメキシコ準州とユタ準州に分割し、さらに1854年に組織化したカンザス準州とネブラスカ準州に分けた。アメリカ人開拓者は岩だらけのロッキー山脈を避け、さらに西のオレゴン州、カリフォルニア州あるいはデザレットに向かった者達は多くノースプラット川やスウィートウォーター川を辿り、現在はワイオミング州のサウス・パスに達した。 1851年4月9日、ニューメキシコ州、当時はニューメキシコ準州タオスからのヒスパニック開拓者がサンルイに開拓村を造ったが、これがコロラドでは最初のヨーロッパ人による恒久的開拓地となった。
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