ヨーロッパ人による接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 22:24 UTC 版)
「マイアミ・デイド郡 (フロリダ州)」の記事における「ヨーロッパ人による接触」の解説
1513年、ビスケーン湾に入ってきたフアン・ポンセ・デ・レオンが、この地域を訪れた最初のヨーロッパ人とされている。その日誌には、テケスタの変化形である「チェケシャ」に到着したと記録しており、それがマイアミで最初に記録された名称となった。デ・レオンが岸に上陸したか、あるいはインディアンと接触したかは不明である。1566年、ペドロ・メネンデス・デ・アビレスとその隊員が、前年に船が難破して行方不明になっていたアビレスの息子を捜している時に、テケスタ族の集落を訪れたのが最初の上陸記録だった。1年後にフランシスコ・ビラレアル神父に率いられたスペイン兵がマイアミ川河口にイエズス会伝道所を建てたが、短命に終わった。スペイン人が去った後、テケスタ族は天然痘などヨーロッパ由来の疫病から自分達を守る必要があった。1711年、テケスタ族は1組の酋長をキューバのハバナに送り、そこに移民が可能かを尋ねさせた。キューバ人は彼等を援助するために2隻の船を派遣したが、スペイン人由来の病気でインディアンの大半が死亡していた。 19世紀初め、最初の恒久的ヨーロッパ人開拓者が到着した。バハマ諸島からフロリダ南部とフロリダ・キーズに来た人々は、危険なグレート・フロリダ・リーフで座礁した船から宝物を探した。そのある者はマイアミ川沿いにスペインが提供する土地を受け入れた。同じ頃、セミノール族インディアンが逃亡奴隷の集団と共に入ってきた。この地域では第二次セミノール戦争が起こり、ウィリアム・S・ハーニー少佐が何度かインディアンに対する襲撃隊を率いた。非インディアンの住人の大半はダラス砦に駐屯する兵士だった。セミノール戦争はアメリカ史の中でも犠牲の多いインディアン戦争となり、マイアミ地域ではインディアンのほぼ全数が消滅した。 1842年に第二次セミノール戦争が終わると、ウィリアム・イングリッシュがマイアミ川沿いに、叔父が造っていたプランテーションを再開させた。マイアミ川南岸に「マイアミ村」を計画し、土地の区画を販売した。1844年、マイアミの町が郡庁所在地となり、その6年後の国勢調査では人口96人となっていた。第三次セミノール戦争は第二次ほど破壊的なものではなかった。それでもフロリダ南東部への入植を鈍化させた。終戦時にここにとどまる兵士もいた。
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