ヨーロッパ人による開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:49 UTC 版)
「チェンバーズバーグ (ペンシルベニア州)」の記事における「ヨーロッパ人による開拓」の解説
18世紀にこの地域に住み、あるいは狩猟をしていたインディアンには、イロコイ族、レナペ族、ショーニー族がいた。「フォーリングスプリング」にスコットランド・アイルランド系移民のベンジャミン・チェンバーズが初めて入植し、フォーリングスプリング・クリークがコノコチーグ・クリークに合流する場所にあった当時は26フィート (7.9 m) の落差があった滝の所に、製粉所と製材所を造って運営を始めた。このクリークが水車に動力を与え、開拓地は「フォーリングスプリング」と呼ばれた。 1734年3月30日、チェンバーズはペン家の代表者から400エーカーの土地について「ブランストン免許」を発行されたが、この地域のヨーロッパ人開拓地は、この土地の領有を主張していたインディアン部族の全てが署名していたわけではなかったので、フレンチ・インディアン戦争を終わらせた条約が成立するまで法的な問題があった。ペン家はメリーランド植民地との境界紛争に関わる訴訟で有利にするために、この地域への入植を奨励した。その境界紛争はクレサップの戦争と呼ばれる敵対関係に発展した。この紛争が決着したのは1767年になってからであり、メイソン=ディクソン線と呼ばれる境界線を測量した。チェンバーズはペン家の主張を支持するためにイングランドに行って証言した。インディアンとの和平を維持するために、ヨーロッパ人開拓者が近くの地域から排除されることもあった。1750年5月、ベンジャミン・チェンバーズが近くのバーント・キャビンズ(燃やされた小屋)から開拓者を排除する動きに加わった。そこはこの出来事からこのような地名ができた。 この地域は正式にチェスター郡、後にランカスター郡、さらにカンバーランド郡に属し、最後は1784年に新設されたフランクリン郡に属するようになった。 フィラデルフィアとシェナンドー渓谷を結ぶグレート・ワゴン道路が近くを通った。1744年、ハリスズフェリー、カーライル、シッペンズバーグ、チェンバーズバーグを通ってポトマック川まで完成した。 1748年、インディアンに対する防御のために地元で民兵隊が結成され、ベンジャミン・チェンバーズがその隊長、大佐に指名された。 フレンチ・インディアン戦争の間、チェンバーズバーグはその前線になった。地域の人口は戦争が始まった1755年に約3,000人だったものが300人にまで急減し、開拓者の大半は和平条約が締結された1764年まで戻らなかった。ベンジャミン・チェンバーズが戦中に自ら石造りの砦を建設し、4ポンド砲2門を装備した。砦の近くで戦闘が起こった。チェンバーズの砦は防御が軽かったので、当局は大砲がインディアンに奪われて他の砦に対して使われるのを防ぐために、大砲を取り去ろうとした。その試みが失敗し、大砲のうち1門は1840年の独立記念日を祝うために使われた。ピット砦に向かうフォーブス道路などの道が近くを通った。フォーブス道路はピッツバーグとフィラデルフィアを結ぶ幹線道に発展し、さらに後にはアメリカ国道30号線となった。チェンバーズバーグはフォーブス道路とグレート・ワゴン道路の交わる点にある交通の中心として発展した。 フレンチ・インディアン戦争の後も戦闘が続いた。有名なのがポンティアックの反乱の間に起きたエノク・ブラウン学校虐殺であり、またラウドン砦でのイギリス軍に対するブラックボーイズの反乱だった。 最初の開拓者はスコットランド・アイルランド系の長老派教会員であり、その後には間もなくドイツ人プロテスタントが続いた。クエーカー教徒とイングランドのプロテスタントがペンシルベニアの初期開拓者では大きな比率を占めていたが、チェンバーズバーグのある西部まで動いては来なかった。チェンバーズバーグの開拓初期から黒人が住んでいた。ベンジャミン・チェンバーズもフレンチ・インディアン戦争より前の時期から黒人女性の奴隷を所有しており、1786年には課税される資産として20人の奴隷が記録されていた。 最初期の教会は1734年にスコットランド・アイルランド系長老派教会員が建てたものだった。チェンバーズが1768年に教徒に土地を与え、年間家賃として1本の薔薇のみを要求した。後に第一ルーテル教会(1780年)とザイオン改革派教会(1780年組織化)に、同じ条件で土地を与えた。これらの教会は「薔薇家賃教会」と呼ばれるようになった。カトリックの地域社会は1785年に組織された。ユダヤ人墓地の歴史は1840年に始まった。マウントモリア第一アフリカン・バプテスト教会は1887年にできた。 チェンバーズバーグの町の区画割りは1764年に決められ、ベンジャミン・フランクリンの新聞「ペンシルベニア・ガゼット」の7月19日に版に販売広告が打たれた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}コーンゴギグ・クリーク沿い、グレート・フォーリングスプリングの両岸、滝が前記クリークに注ぐ所で、カンバーランド郡のベンジャミン・チェンバーズが町の区画割りを決めたことを、ここに公開する。各区画は合理的な条件にあり、前記チェンバーズによって確とした土地証書が出される。前記区画の抽選に指定された日は6月28日、木曜日である。この町の状態は、水と石は無料で良好であり、良い製粉所、製材所、碾き臼が水力で動かされる。町に関する記事は区画の抽選に指定された日に読まれるべきであり、販売条件は私が掲載する —ベンジャミン・チェンバーズ
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