ヨーロッパ人の到来とは? わかりやすく解説

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ヨーロッパ人の到来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:11 UTC 版)

ポリネシア」の記事における「ヨーロッパ人の到来」の解説

ヨーロッパ人による最初太平洋航海は、1521年スペインフェルディナンド・マゼランFerdinand Magellanが行った航海であるが、マゼラン艦隊トゥアモトゥ諸島ライン諸島無人島接触したのみで、ポリネシア人には接触しなかった。ヨーロッパ人による本格的なポリネシア探検始まりは、1642年アベル・タスマンAbel Tasman)が、オランダ東インド会社依頼受けて行った探検である。タスマンはこの探検ニュージーランド南島トンガ到達しマオリ人とは敵対したが、トンガ人とは友好的な交流行い、トゥイ・ハアタカラウアに謁見している。また1722年ヤーコプ・ロッヘフェーン南方大陸探索のために太平洋探検しイースター島ボラボラ島サモア到達している。 1768年イギリスサミュエル・ウォリスSamuel Wallis)は初めタヒチ到達したヨーロッパ人となった。その10箇月半後にはフランスルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルLouis Antoine de Bougainville)もタヒチ訪れている。 ポリネシア残り地域詳細判明するのは、1768年から1780年にかけて行われたジェームズ・クックJames Cook)による3回にわたる探検航海である。クックタヒチニュージーランドトンガのほか、1778年第3回航海途上ハワイ諸島到達している。なお、第3回航海参加したウィリアム・ブライWilliam Bligh)は、1787年バウンティ号HMS Bounty)の船長になるが、1789年4月28日トンガ沖で乗組員による反乱事件起こされている。この事件バウンティ号の反乱Mutiny on the Bounty)といい、バウンティ号追放されブライ以下19人は、ボートで6,701km離れたティモール島にたどり着き生還する一方反乱起こした乗組員たちはタヒチ戻り16人はタヒチ残留したが、8人はタヒチ人の男女を船に乗せて無人島であったピトケアン島移住した。 また1804年には、ロシア帝国ニコライ・レザノフ(Николай Резанов)が指揮する2隻の艦隊が、マルキーズ諸島ヌク・ヒバ島ハワイ寄港した。2隻のうちのナジェジダ号(英語版)(Надежда)には、陸奥国牡鹿郡石巻(現:宮城県石巻市出身津太夫善六若宮丸漂流民5名が乗っており、確実な記録残っている中では、若宮丸漂流民5名が初めポリネシア訪れた日本人である。

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ヨーロッパ人の到来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 22:45 UTC 版)

太平洋」の記事における「ヨーロッパ人の到来」の解説

16世紀初頭ヨーロッパ人太平洋到達した最初に太平洋到達したヨーロッパ人は、1513年パナマ地峡渡ったバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアである。彼はMar del Sur南の海という意味)と名付けた。この名がついたのは、バルボア渡ったパナマ地峡南北短く北岸カリブ海側から南岸太平洋側到達したからである。そしてその後ポルトガル人探検家フェルディナンド・マゼラン1519年から1521年の間に世界一周過程太平洋航海するとき、マゼラン太平洋を "Pacífico" または "Pacific" とよんだ。この言葉平和な、または太平な、という意味である。なぜなら航海最中ずっと海が穏やかだったからである。 しかしマゼラン本人1521年フィリピン死んでしまい、スペイン人航海士フアン・セバスティアン・エルカーノ一隊連れてインド洋超え喜望峰をまわり、1522年スペイン帰国し世界一周成し遂げた1525年から1527年にかけては、ポルトガル人探検隊カロリン諸島ニューギニア島到達した1564年ミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いスペイン探検隊メキシコからフィリピン諸島マリアナ諸島海を渡った16世紀その後スペインの影響は最も大きかったスペインメキシコペルーから太平洋越えてグアム経由しフィリピンまで航行するスペイン領東インド作ったマニラ・ガレオン250年間、マニラアカプルコ結んだ。これは歴史上最も長い交易路一つである。スペイン探検により南太平洋ツバルマルキーズ諸島ソロモン諸島見つかったテラ・アウストラリスを捜す探検の中で、スペイン人の探検家たちは17世紀南太平洋ピトケアン諸島バヌアツ諸島発見したオランダ人探検家たちも南アフリカをまわり、発見交易かかわったアベル・タスマン1642年タスマニア島ニュージーランド発見した18世紀にはいると、ロシア人アラスカアリューシャン列島大規模な探検おこなったスペイン北西太平洋へ探検家送りカナダおよびアラスカ南部バンクーバー島まで達したフランス人ポリネシア探検し植民したイギリスジェームズ・クックらを3回航海させ、南太平洋オーストラリアハワイ北米太平洋岸北西部へ行かせた。このクックの航海により、太平洋中央部島々のかなりが発見された。 19世紀拡大した帝国主義により、太平洋大部分ヨーロッパの列強占領され次にアメリカ合衆国日本占領された。1830年代チャールズ・ダーウィンをのせ航海したビーグル号1870年代航海したチャレンジャー号チャレンジャー号探検航海)などによって多く海洋学知識もたらされた。 アメリカ合衆国パリ条約によってグアムフィリピンスペインから1898年得たが、その後日本西太平洋のほとんどを1914年に、そして他の島を太平洋戦争中占領した。しかし敗戦とともにアメリカ海軍太平洋艦隊太平洋事実上占領した第二次世界大戦の後太平洋多く植民地独立国家になった

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ヨーロッパ人の到来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 08:36 UTC 版)

ニュージーランドの歴史」の記事における「ヨーロッパ人の到来」の解説

ニュージーランドヨーロッパ人として初め発見したのはオランダ探検家アベル・タスマンであった南の海にあるとされる未知の南方大陸発見目的として1642年8月4日ジャワ島バタヴィア出航したタスマンは、インド洋西部モーリシャスから南下しタスマニア島発見する。さらにその東から北上することで同年12月13日ニュージーランド南島一角発見する至った。しかし、タスマン自身はこれを島と思わず、南アメリカ大陸西端誤認し北上続けた南島北島隔てクック海峡差し掛かった際、これを湾入考え飲料水を得るために投錨上陸試みたが、マオリ発見され船員4人が殺されてしまう。この事件きっかけタスマン極度に警戒躊躇し一度上陸することなくニュージーランドを後にした。タスマンはこの陸地故国オランダ臨海ゼーランドにちなみ、ゼーランディア・ノヴァと名付けた。これが現在のニュージーランド呼称の由来となっている。 それから100年以上が経過した1768年イギリス探検家ジェームズ・クックが、イギリス王立協会要請による金星の太陽面通過観測のため、タヒチ島派遣された。金星観測終えた1769年クックタヒチから西へ航海最中10月7日ニュージーランド北島の陸影を発見する翌日現在のギズボーン沖に投錨したクックヨーロッパ人として初めニュージーランドの上陸を果たしたその後6ヶ月をかけて北島南島の全海域周航しクックは、極めて正確な海岸線図を作成している。 クック「発見」きっかけとして交易捕鯨宣教などを目的としたニュージーランドへの来訪者現れるうになる交易品目としてはカウリニュージーランド麻がマストロープ材料として人気博したまた、ラッセル捕鯨船良好な寄港地として知られるようになり、イギリスだけでなくアメリカフランスなど様々な国籍船舶停泊する港町へと変貌遂げた海産物ではクジラの他にアザラシオットセイなども取引がなされ、南島各地次々と拠点作られた。しかしこうした乱獲によりクジラアザラシオットセイ19世紀始めにはその数を急激に減らしていき、捕鯨海獣漁は1850年代までに衰退していった。 また、文化面では1807年以降舶来マスケット銃持ち込まれるようになり、先住民同士戦争形態にも大きな変革起こった殺傷力の高い武器を手にしたことによる抗争激化ヨーロッパ人持ち込んだインフルエンザ赤痢百日咳、はしか、チフスといった病気とともに19世紀マオリ人口減少招いた一因指摘されている。キリスト教1814年英国国教会基盤とするチャーチ・ミッショナリー協会のサミュエル・マースデンによってもたらされた。馬などの家畜もこのとき持ち込まれたとされている。 1830年までに約2,000人のヨーロッパ人ニュージーランドに居住するようになったこの中にはオーストラリア流刑地から脱走してきたものも多く含まれており、ニュージーランド治安大い乱れた。特にラッセルは「太平洋の地獄」とも称されるほどの荒れようだったという。 1830年イギリス人船長マオリ間の紛争介入し、ンガイ・タフ・マオリを虐殺するという事件(オナウェ事件)が起こったことをきっかけとして、イギリスニュージーランド法と秩序もたらすべく1833年5月ジェームズ・バズビー駐在弁務官として任命し、その対応にあたらせた。バズビーはまずニュージーランドの国旗制定取り組み、翌1834年3月マオリ首長たちを交えた会議にてニュージーランドの国旗取り決めた。これをもとにマオリ首長たちに独立宣言書署名を行わせ、1835年10月25日ニュージーランド北部ニュージーランド部族連合国が誕生した

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