ヨーロッパ人の到来
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ヨーロッパ人による最初の太平洋航海は、1521年にスペインのフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)が行った航海であるが、マゼラン艦隊はトゥアモトゥ諸島やライン諸島の無人島に接触したのみで、ポリネシア人には接触しなかった。ヨーロッパ人による本格的なポリネシア探検の始まりは、1642年にアベル・タスマン(Abel Tasman)が、オランダ東インド会社の依頼を受けて行った探検である。タスマンはこの探検でニュージーランド南島やトンガに到達し、マオリ人とは敵対したが、トンガ人とは友好的な交流を行い、トゥイ・ハアタカラウアに謁見している。また1722年、ヤーコプ・ロッヘフェーンは南方大陸探索のために太平洋を探検し、イースター島、ボラボラ島、サモアに到達している。 1768年、イギリスのサミュエル・ウォリス(Samuel Wallis)は初めてタヒチに到達したヨーロッパ人となった。その10箇月半後にはフランスのルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(Louis Antoine de Bougainville)もタヒチを訪れている。 ポリネシアの残りの地域の詳細が判明するのは、1768年から1780年にかけて行われたジェームズ・クック(James Cook)による3回にわたる探検航海である。クックはタヒチ、ニュージーランド、トンガのほか、1778年の第3回航海の途上でハワイ諸島に到達している。なお、第3回航海に参加したウィリアム・ブライ(William Bligh)は、1787年にバウンティ号(HMS Bounty)の船長になるが、1789年4月28日にトンガ沖で乗組員による反乱事件を起こされている。この事件はバウンティ号の反乱(Mutiny on the Bounty)といい、バウンティ号を追放されたブライ以下19人は、ボートで6,701km離れたティモール島にたどり着き生還する。一方、反乱を起こした乗組員たちはタヒチに戻り、16人はタヒチに残留したが、8人はタヒチ人の男女を船に乗せて無人島であったピトケアン島に移住した。 また1804年には、ロシア帝国のニコライ・レザノフ(Николай Резанов)が指揮する2隻の艦隊が、マルキーズ諸島ヌク・ヒバ島とハワイに寄港した。2隻のうちのナジェジダ号(英語版)(Надежда)には、陸奥国牡鹿郡石巻(現:宮城県石巻市)出身の津太夫や善六ら若宮丸漂流民5名が乗っており、確実な記録に残っている中では、若宮丸漂流民5名が初めてポリネシアを訪れた日本人である。
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ヨーロッパ人の到来
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16世紀初頭、ヨーロッパ人が太平洋に到達した。最初に太平洋に到達したヨーロッパ人は、1513年にパナマ地峡を渡ったバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアである。彼はMar del Sur (南の海という意味)と名付けた。この名がついたのは、バルボアが渡ったパナマ地峡は南北に短く、北岸のカリブ海側から南岸の太平洋側に到達したからである。そしてその後、ポルトガル人の探検家、フェルディナンド・マゼランが1519年から1521年の間に世界一周の過程で太平洋を航海するとき、マゼランは太平洋を "Pacífico" または "Pacific" とよんだ。この言葉は平和な、または太平な、という意味である。なぜなら航海の最中ずっと海が穏やかだったからである。 しかしマゼラン本人は1521年にフィリピンで死んでしまい、スペイン人航海士、フアン・セバスティアン・エルカーノが一隊を連れてインド洋を超え喜望峰をまわり、1522年にスペインへ帰国し世界一周を成し遂げた。1525年から1527年にかけては、ポルトガル人の探検隊がカロリン諸島とニューギニア島に到達した。 1564年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いるスペインの探検隊がメキシコからフィリピン諸島とマリアナ諸島へ海を渡った。16世紀のその後、スペインの影響は最も大きかった。スペインはメキシコとペルーから太平洋を越えてグアムを経由しフィリピンまで航行する、スペイン領東インドを作った。マニラ・ガレオンは250年間、マニラとアカプルコと結んだ。これは歴史上最も長い交易路の一つである。スペインの探検により南太平洋のツバル、マルキーズ諸島、ソロモン諸島が見つかった。 テラ・アウストラリスを捜す探検の中で、スペイン人の探検家たちは17世紀に南太平洋のピトケアン諸島とバヌアツ諸島を発見した。オランダ人探検家たちも南アフリカをまわり、発見と交易にかかわった。アベル・タスマンは1642年にタスマニア島とニュージーランドを発見した。18世紀にはいると、ロシア人がアラスカとアリューシャン列島の大規模な探検をおこなった。スペインは北西太平洋へも探検家を送り、カナダおよびアラスカ南部のバンクーバー島まで達した。フランス人はポリネシアを探検し、植民した。イギリスはジェームズ・クックらを3回航海させ、南太平洋やオーストラリアやハワイや北米の太平洋岸北西部へ行かせた。このクックの航海により、太平洋中央部の島々のかなりが発見された。 19世紀中拡大した帝国主義により、太平洋の大部分がヨーロッパの列強に占領され、次にアメリカ合衆国と日本に占領された。1830年代にチャールズ・ダーウィンをのせ航海したビーグル号や1870年代に航海したチャレンジャー号(チャレンジャー号探検航海)などによって多くの海洋学的知識がもたらされた。 アメリカ合衆国はパリ条約によってグアムとフィリピンをスペインから1898年に得たが、その後日本が西太平洋のほとんどを1914年に、そして他の島を太平洋戦争中に占領した。しかし敗戦とともにアメリカ海軍の太平洋艦隊が太平洋を事実上占領した。第二次世界大戦の後、太平洋の多くの植民地が独立国家になった。
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ヨーロッパ人の到来
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「ニュージーランドの歴史」の記事における「ヨーロッパ人の到来」の解説
ニュージーランドをヨーロッパ人として初めて発見したのはオランダの探検家、アベル・タスマンであった。南の海にあるとされる未知の南方大陸の発見を目的として1642年8月4日にジャワ島バタヴィアを出航したタスマンは、インド洋西部のモーリシャスから南下し、タスマニア島を発見する。さらにその東から北上することで同年12月13日、ニュージーランド南島の一角を発見するに至った。しかし、タスマン自身はこれを島と思わず、南アメリカ大陸の西端と誤認し、北上を続けた。南島と北島を隔てるクック海峡に差し掛かった際、これを湾入と考え、飲料水を得るために投錨・上陸を試みたが、マオリに発見され、船員4人が殺されてしまう。この事件がきっかけでタスマンは極度に警戒・躊躇し、一度も上陸することなくニュージーランドを後にした。タスマンはこの陸地に故国オランダの臨海州ゼーランドにちなみ、ゼーランディア・ノヴァと名付けた。これが現在のニュージーランドの呼称の由来となっている。 それから100年以上が経過した1768年、イギリスの探検家ジェームズ・クックが、イギリス王立協会の要請による金星の太陽面通過観測のため、タヒチ島へ派遣された。金星観測を終えた1769年、クックはタヒチから西への航海の最中の10月7日にニュージーランド北島の陸影を発見する。翌日、現在のギズボーン沖に投錨したクックはヨーロッパ人として初めてニュージーランドへの上陸を果たした。その後6ヶ月をかけて北島、南島の全海域を周航したクックは、極めて正確な海岸線図を作成している。 クックの「発見」をきっかけとして交易・捕鯨・宣教などを目的としたニュージーランドへの来訪者が現れるようになる。交易品目としてはカウリやニュージーランド麻がマストやロープの材料として人気を博した。また、ラッセルは捕鯨船の良好な寄港地として知られるようになり、イギリスだけでなくアメリカ、フランスなど様々な国籍の船舶が停泊する港町へと変貌を遂げた。海産物ではクジラの他にアザラシやオットセイなども取引がなされ、南島の各地に次々と拠点が作られた。しかしこうした乱獲によりクジラやアザラシ、オットセイは19世紀始めにはその数を急激に減らしていき、捕鯨や海獣漁は1850年代までに衰退していった。 また、文化面では1807年以降、舶来のマスケット銃が持ち込まれるようになり、先住民同士の戦争形態にも大きな変革が起こった。殺傷力の高い武器を手にしたことによる抗争激化はヨーロッパ人が持ち込んだインフルエンザ、赤痢、百日咳、はしか、チフスといった病気とともに19世紀のマオリの人口減少を招いた一因と指摘されている。キリスト教は1814年、英国国教会を基盤とするチャーチ・ミッショナリー協会のサミュエル・マースデンによってもたらされた。馬などの家畜もこのとき持ち込まれたとされている。 1830年までに約2,000人のヨーロッパ人がニュージーランドに居住するようになった。この中にはオーストラリア流刑地から脱走してきたものも多く含まれており、ニュージーランドの治安は大いに乱れた。特にラッセルは「太平洋の地獄」とも称されるほどの荒れようだったという。 1830年、イギリス人船長がマオリ間の紛争に介入し、ンガイ・タフ・マオリを虐殺するという事件(オナウェ事件)が起こったことをきっかけとして、イギリスはニュージーランドへ法と秩序をもたらすべく1833年5月、ジェームズ・バズビーを駐在弁務官として任命し、その対応にあたらせた。バズビーはまずニュージーランドの国旗制定に取り組み、翌1834年3月、マオリ首長たちを交えた会議にてニュージーランドの国旗を取り決めた。これをもとにマオリ首長たちに独立宣言書に署名を行わせ、1835年10月25日、ニュージーランド北部にニュージーランド部族連合国が誕生した。
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