ヨーロッパ人の探検:1682年-1853年
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「ネブラスカ州の歴史」の記事における「ヨーロッパ人の探検:1682年-1853年」の解説
ヨーロッパ中から何人かの探検家がネブラスカとなる土地を探検した。1682年、ルネ=ロベール・カヴァリエがミシシッピ川とその支流によって潤される全ての地域にルイジアナ領地と名前をつけ、初めてフランス領と宣言した。1714年、エティエンヌ・ド・ブールモンがモンタナのミズーリ川河口からプラット川河口まで旅し、その川を「ネブラスキエ」川とよんで、州名に近いものを名付けた最初の人となった。 1720年、スペイン人ペドロ・デ・ヴィラスールがサンタフェからネブラスカに至るインディアン道を辿る陸路の遠征隊を率いた。ポーニー族との戦闘で、ヴィラスールと34名の隊員は、現在のネブラスカ州コロンバスの直ぐ南、ループ川とプラット川が合流する近くで殺された。この地域のスペイン支配において大きな敗北となり、1人の修道士だけが生き残ったが、ヌエバ・エスパーニャ植民地に対する警告として明らかに殺されずにおかれた。1739年、フランス系カナダ人の2人組探検家ピエールとポール・マレーが水路でサンタフェに行くことを目標に、プラット川と名付けた川の河口に到着した。彼等はプラット川の南支流を辿ってコロラドに達した。 1762年、フォンテーヌブロー条約で、フランスはミシシッピ川の西の土地をスペインに割譲し、後のネブラスカはヌエバ・エスパーニャの一部となった。1795年、ジャック・デグリーズがスペイン王室のためにミズーリ川流域を旅した。デグリーズは見つからない北西航路を探しており、ノースダコタ中央部までしか行けなかった。
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