ヨーロッパ人の到達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:03 UTC 版)
「オーストラリア」の記事における「ヨーロッパ人の到達」の解説
周りは荒い海であったために、16世紀頃の世界地図にTerra Australis Incognita(テラ・アウストラリス・インコグニタ、「南方にある未知の大地」という意味)と表されていた。 1606年に当大陸に最初に到来したヨーロッパ人はオランダ東インド会社のウィレム・ヤンスゾーン(英語版)であった。赤道に近い熱帯の北部地域に上陸し地図を作成したが、交易に値する物品はないと判断し、入植しなかった。 1770年にスコットランド人のジェームズ・クックが温帯のシドニーのボタニー湾に上陸して領有を宣言し、入植が始まり、東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付けた。なお、決定的証拠はないが、1770年に上陸したジェームズ・クックよりも150年も前に山田長政が先にオーストラリア大陸を発見していたという説がある。 アメリカの独立により、1788年からアメリカに代わり流罪植民地としてイギリス人の移民が始まった。初期移民団1030人のうち、736人が囚人 (男586人・女242人という説あり) で、その他はほとんどが貧困層の人間であった。また、当時は軽犯罪でも当地に流刑されたという。1791年の第2回囚人護送は1017人で、航海中に281人が死んだが、植民地での食糧難を加速させたため、政府は1年を待たずして自由移民を募り農地を拡大させた。 白人入植以降、先住民族であるアボリジニは白人による娯楽としての狩猟(スポーツハンティング)の対象となり虐殺された。その後も政府の政策によりタスマニア島を含むアボリジニの人口は激減した。 1828年に全土がイギリスの植民地となり、開拓が進んだ。その過程で先住民のアボリジニから土地を取り上げて放逐、殺害した。1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅させられた(ブラック・ウォー)。19世紀の初めにはスペイン産メリノ種羊を改良し、以後、羊毛産業が発展した。なお、羊が重宝されたのは羊毛に関してだけでなく、まだ冷凍船がなかった頃、肉類の中で羊肉が長持ちしたためである。 1851年にビクトリア内陸部で金が発見され、ゴールドラッシュが発生した。これ以降は南ヨーロッパや中国などイギリス以外の国籍の移民が増加した。特に中国人は、1850年代に3万人以上が労働者として渡来。当時200万人に満たなかった大陸人口の中において、中国人の増加は問題視されるようになった。後に、中国系の移民に対する排斥運動が起こり、後の白豪主義につながったといわれる。金の発見により内陸部の探検が活発になり、中東から持ち込まれたラクダを使った探検隊が編成された。1860年の「バーク・ウィルズ探検隊」は有名である。
※この「ヨーロッパ人の到達」の解説は、「オーストラリア」の解説の一部です。
「ヨーロッパ人の到達」を含む「オーストラリア」の記事については、「オーストラリア」の概要を参照ください。
ヨーロッパ人の到達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:50 UTC 版)
「マダガスカルの歴史」の記事における「ヨーロッパ人の到達」の解説
『東方見聞録』で紹介されたマダガスカルの存在は、その存在自体が疑われていた。しかし、1500年8月10日、ポルトガル人のディエゴ・ディアスがマダガスカルを「発見」した。この日は聖ロレンソの祝日であったため、ディアスは島を聖ロレンソ島と命名した。 マダガスカル「発見」後、ポルトガルは度々、宣教師を送りキリスト教布教を進めるが失敗した。またイギリス、オランダがマダガスカルの沿岸に拠点を築こうと試みたが、しかしこれも原住民の反発を受けたため、100年以上に渡ってヨーロッパ人の征服は失敗が続いた。 1643年、フランスのプロニスが、マダガスカル島南端のフォー・ドーファンに要塞を建設。プロニスの後継であるフラクールが最初の総督に任命された。フォー・ドーファンでは、1673年に地域部族の反乱により撤退を余儀なくされたが、その後もフランスは統治権を主張しつづけた。
※この「ヨーロッパ人の到達」の解説は、「マダガスカルの歴史」の解説の一部です。
「ヨーロッパ人の到達」を含む「マダガスカルの歴史」の記事については、「マダガスカルの歴史」の概要を参照ください。
- ヨーロッパ人の到達のページへのリンク