スペイン植民地時代とは? わかりやすく解説

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スペイン植民地時代(1565年-1898年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 16:46 UTC 版)

フィリピンにおける死刑」の記事における「スペイン植民地時代(1565年-1898年)」の解説

反逆罪軍隊犯罪には銃殺刑一般犯罪にはスペインと同じ鉄環絞首刑執行されていた。ホセ・リサールスペイン政府により1896年12月30日の朝、銃殺執行隊によって処刑された。

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スペイン植民地時代(1516年-1811年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 16:41 UTC 版)

ウルグアイの歴史」の記事における「スペイン植民地時代(1516年-1811年)」の解説

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 1492年クリストーバル・コロンクリストファー・コロンブス)がアメリカ大陸「発見」すると、南北アメリカ大陸全体ヨーロッパ人征服者押し寄せた現在のウルグアイ相当するラ・プラタ川河口部にも、1516年スペイン探険家フアン・ディアス・デ・ソリスが初のヨーロッパ人として到達した。しかし、先住民征服しようとしたソリスは、逆にチャルーア族殺害されてしまった。1519年にはフェルナン・デ・マガリャンイスフェルディナンド・マゼラン)の船団がこの地を訪れ1526年のセバスティアーノ・ガボートの探検隊が後に続きガボートパラナ川にまで到達したヨーロッパ人の到来以降、この地の住民インディオ呼ばれるようになった平坦な丘陵続き、特に鉱物資源無くチャルーア人のような強力なインディオ支配していたこの地はスペイン植民地中でも特に植民が遅れることになったが、1574年にはスペイン人による初の入植地であるサン・サルバドル現在のドローレス英語版)に建設された。その後1603年スペイン人が牛を放牧すると、以降この地には爆発的に野生牛馬増殖し、やがてこれを取り合ってスペインポルトガル両国争い始まりバンダ・オリエンタルウルグアイ川東岸地帯)は両国係争地となったこうした中で、1624年に現在まで残る最初村落ヴィジャ・ソリアーノ(英語版)が、スペインイエズス会伝道団によってネグロ川ウルグアイ川流域(現ソリアノ県西部)に建設された。 南米に於けるスペインとポルトガル抗争は、現在のパラグアイ一帯存在したイエズス会布教村落ポルトガル領ブラジル英語版)から侵入した奥地探検隊バンデイランテス襲撃し、はじめて住民グアラニーインディオブラジル奴隷として連行した1629年より激化し1641年ポルトガル勢力がムボロレーの戦いスペイン語版)でイエズス会敗北してからは一時的な小康見せたが、1680年ブラジルから侵入したポルトガル人が、トルデシリャス条約無視してブエノスアイレスとの密貿易のためにコロニア・ド・サクラメント建設したことによってこの争いは再び激化したコロニア密輸拠点として栄え幾度もスペインとポルトガルの間で帰属変えた1726年ブエノスアイレス総督ブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラ(スペイン語版)は、コロニアポルトガル人対向するために、ラ・プラタ川河口東岸モンテビデオ建設した1750年マドリード条約英語版)によってスペインコロニア・ド・サクラメントを得る代わりにその他の全てのバンダ・オリエンタル放棄し1761年エル・パルド条約コロニアをも放棄したが、最終的に1777年サン・イルデフォンソ条約により、バンダ・オリエンタルと全ミシオネスのスペイン領有が確定したまた、ウルグアイ川東岸7つ布教村落帰属巡って1754年1756年イエズス会士伝道地のグアラニー人スペインポルトガル勢力相手グアラニー戦争英語版)を起こしている。この事件の後スペイン領からイエズス会追放されたのは1767年であった。 このスペインとポルトガル係争最中入植したスペイン人は、土着化してクリオーリョとなったバンダ・オリエンタルには家内奴隷としてアフリカから極少数の黒人連行されスペイン人ポルトガル人戦い最中にもチャルーア人はじめとするインディオ諸族とクリオーリョ戦い続いた家畜追って生計立てガウーチョ呼ばれる人々登場し彼等による独自の文化様式栄えた1776年にはカルロス3世によるボルボン改革によって、ペルー副王領から現在のアルゼンチンウルグアイパラグアイボリビア包括する地域ブエノスアイレス主都としたリオ・デ・ラ・プラタ副王領として分離されモンテビデオブエノスアイレスに次ぐ副王領内で第二の港として成長することになった18世紀後半になると、ブエノスアイレスクリオーリョ達は自由貿易を望むようになった。 1789年フランス革命勃発してヨーロッパ政情大混乱陥ると、本国スペインフランス同盟したため、1806年イギリス軍ラ・プラタ地域侵略英語版)し、ブエノスアイレスから撤退してきたイギリス軍によりモンテビデオ占領されたが、ブエノスアイレスではポルテーニョ(英語版民兵隊によってイギリス軍破られ1807年イギリス軍撤退した。この戦いにより一時的に自由貿易経験したポルテーニョ達の間には、自由貿易実践への欲望と、更なる自治への自信芽生えた1808年フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトスペイン国王フェルナンド7世追放して、兄のジョゼフスペイン王ホセ1世据えると、インディアス植民地偽王への忠誠拒否したフェルナンド7世退位認めなかったポルテーニョ達は、1810年5月ブエノスアイレスカビルド・アビエルト開かれた議会)を開き五月革命達成されてコルネリオ・サーベドラやマリアーノ・モレーノをはじめとするクリオーリョスペイン人から権力奪取したが、バンダ・オリエンタルコルドバパラグアイアルト・ペルーと共にブエノスアイレスのこの措置認めなかった。

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スペイン植民地時代 (1537年-1811年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 22:43 UTC 版)

パラグアイの歴史」の記事における「スペイン植民地時代 (1537年-1811年)」の解説

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 1537年8月15日聖母の被昇天の日にブエノスアイレスから出発したスペインの探検家によってパラグアイ川の畔にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン建設された。先住グアラニー族たちは、スペイン人出会う女性提供し共存受け入れた1542年にはラ・プラタ地方地方長官として、ブエノスアイレス放棄されていたためアスンシオンカベサ・デ・バカ派遣されたが、風紀粛正努めたカベサ・デ・バカ1545年現地化したスペイン社会代表者イララスペイン語版)によって追放されてしまった。当初グアラニー族たちは共通の敵だった狩猟民との戦い目的スペイン人蜜月関係築いていたが、1556年エンコミエンダ制導入されグアラニー族スペイン人分配されるうになると、それまで義兄弟」だったグアラニー族スペイン人の関係は一挙に険悪なものとなり、1579年起きたオベラーの反乱のように、16世紀後半通してグアラニー族反乱相次いだパラグアイでは当初エンコミエンダ制として、グアラニー族拡大家族制度テピイを基盤先住民生涯通して奴隷労働力とするヤナコナ制が採用されたが、後にヤナコナ制は先住民一定期間労働力として使用するミタ制に取って代わられた。 イララ死後ガライ、エルナンダリアス(スペイン語版)とパラグアイ司令官替わりガライの代にはアスンシオンからの殖民団によってサンタ・フェ(1573)やブエノスアイレス(1580)などの都市建設された。16世紀後半にはインディオへのキリスト教布教のために1575年フランシスコ会が、1588年イエズス会到着し、エルナンダリアスはフランシスコ会布教村落建設後押しする一方でイエズス会布教村落(レドゥクシオン)に対してイエズス会要請聞き入れ布教村落内の先住民の自由を認め決定スペイン王承認させた。 1611年イエズス会の強い働きかけによって、インディアス審議会エンコメンデーロによる奴隷労働からのインディオ解放定めたアルファロ法令発令すると、インディオ奴隷労働力を奪われることからこの法令反対したパラグアイスペイン人社会イエズス会敵対激しいものとなったが、それでもこの法令によってイエズス会布教村落に暮らすインディオエンコミエンダから解放されることが法的に認められた。アルファロ法令発令以降イエズス会布教村落王室保護の下で大発展を遂げ以降パラグアイではスペイン人社会イエズス会布教村落二重社会形成された。1618年パラグアイからラ・プラタ地方分離されラ・プラタブエノスアイレス中心とする独自の司令官となった一方パラグアイポルトガル脅威曝されていた。ポルトガル領ブラジル英語版)のサンパウロ拠点とする武装探検隊、バンデイランテの奴隷狩り遠征隊が1629年サン・アントニオ襲撃契機に、グアイラ地方イエズス会布教村落をも襲撃するようになったのである。このサン・アントニオ襲撃事件受けてイエズス会のアントニオ・ルイス・モントーヤ(スペイン語版)はグアイラ地方12,000人を率いてアルゼンチンミシオネス州撤退し、翌1632年のバンデイランテの襲撃によって以降グアイラ地方ブラジル領(現パラナ州)の一部となった。バンデイランテの襲撃抵抗したイエズス会スペイン権力から独自にバンデイランテへの対策講じ1641年3月のムボロレーの戦いスペイン語版)でグアラニー族率いて約2,950人からなるバンデイランテの侵攻軍を破り以降バンデイランテの襲撃小規模なものとなったその後1680年ブラジルからのバンデイランテがスペイン領だったウルグアイ川東岸コロニア・ド・サクラメント築きブエノスアイレススペイン人脅威与えるようになると、布教村落グアラニー族はこの時の戦いに3,000人の兵力供出し、ポルトガル戦った1630年イエズス会パラグアイ管区長インディオ保護官に就任することが定められた後、18世紀に入る頃にはイエズス会布教村落の数は30達し最盛期1730年には人口14万人数えた。アルト・パラナ川とウルグアイ川狭間地域の約10万平方km存在したこの30布教村落は「イエズス会国家」とも呼ばれイエズス会士グアラニー族によって高度な自治展開された。布教村落男性職業関わりなく戦士として武装しイエズス会士スペイン軍軍人によって指揮されスペイン戦争動員された。経済面では、布教村落土地制度は各家族割り当てられたアバムバエと共有地のトゥパムバエに別れ後者がより一般的なものとなった。トゥパムバエでは牧畜マテ茶栽培が行われ、布教村落栽培されマテ茶産業乏しパラグアイ最大輸出商品となったまた、経済的に豊かな地域からは地理的に隔絶されていたために、経済自給自足化と、それを支えるための技術発達し綿織物皮革木製品などの輸出商品生産するにまで至った文化面では、トリニダード教会のような煉瓦製の教会建造や、グアラニー・バロックの聖像製作、グアラニー語辞典文法書編纂グアラニー語そのもの実用言語化ヨーロッパ音楽導入といったような文化的な事業が、ヨーロッパ諸国から派遣されイエズス会士現地グアラニー族信徒によって進められた。布教村落インディオ当時ラ・プラタ地方一般的なスペイン人よりも高度な医療享受していると看做されており、より豪華な住居暮らしていたと考えられる1680年ポルトガルによってブエノスアイレス対岸コロニア・ド・サクラメント建設されたことは、ラ・プラタ川流域を巡るスペインとポルトガル対立激化させていたが、この対立は、1750年締結されマドリード条約英語版)によって、ポルトガルコロニア・ド・サクラメントと、実効支配ていないフィリピンスペイン譲渡することと引き変えに、アマゾン川流域現在のブラジル南部広大な地域スペインから獲得するという取り引き経て解消に向かうことになった。この条約スペインからポルトガル引き渡されることとなったウルグアイ川東岸7つ教化引き渡すことは、住民イエズス会士グアラニー族の強い抵抗惹き起こしたが、1754年1756年スペイン=ポルトガル連合軍による征討グアラニー戦争英語版))によって7つ教化強制移住余儀なくされた。この事件によってイエズス会権威低落し最終的にカトリック教会からの王権の強化図った国王カルロス3世によって、1767年スペイン全土からイエズス会追放されることとなったイエズス会追放によって布教村落歴史終焉し、イエズス会に代わって新たな統治者となったフランシスコ会ドミニコ会、メルセード会はグアラニー族収奪のみに専念したため、グアラニー族文化を育んだ布教村落形態そのもの衰退一途辿った1776年カルロス3世啓蒙専制主義改革一環としてブエノスアイレス主都としたリオ・デ・ラ・プラタ副王領ペルー副王領から分離すると、パラグアイ新たに創設され副王領一部となった

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スペイン植民地時代(1542年-1824年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:09 UTC 版)

ペルーの歴史」の記事における「スペイン植民地時代(1542年-1824年)」の解説

詳細は「ヌエバ・カスティーリャ(スペイン語版英語版)」、「ヌエバ・トレド(スペイン語版英語版)」、および「ペルー副王領」を参照 スペイン植民地下のペルーには、1542年ペルー副王領設立され行政の中心地アンデス山脈中のクスコから、太平洋沿岸リマ移された。リマスペイン南アメリカ支配本拠地として栄え1550年にはサン・マルコス大学建設された。征服時代にはエンコミエンダ割り当てられ征服者エンコメンデーロ)による気まま支配が行われていたが、アルト・ペルースペイン王植民地としての制度整えた頃から、エンコメンデーロ排斥するため、国王によって任命され任期5年コレヒドール地方行政官)と、コレヒドールによって使役されるインディオカシーケ首長)による支配体制確立された。しかし、コレヒドール給与は生活を送るには低すぎたために、多くコレヒドールレパルティミエント商品強制分配)を利用してインディオ商品不当な価格売買し私財蓄えることを常とした。このことはインディオ怨嗟を招くと同時に植民地行政腐敗温床となった植民地時代通してコレヒドールレパルティミエントによる搾取のみならずミタ制呼ばれるカシーケ通じたインディオ共同体への賦役貢納要請し、特に3世紀の間に800万人死者出したポトシ銀山はじめとする鉱山でのミタは、多くインディオ共同体甚大な被害与えたコレヒドール制やミタ制導入といった植民地支配のための官僚機構整備は、1569年から1581年まで着任したペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治によって完成された。アメリカ大陸住民征服と、それに伴う数多犯罪行為思想的正当化するために、キリスト教カトリック教会スペイン精神的な支柱役割果たしたため、1546年にはリマ大司教座設置されドミニコ会フランシスコ会、メルセー会、イエズス会などの修道会インディオへのカトリック布教大々的進めたこの他にもトレドインディオ強制集住させてレドゥクシオンと呼ばれる人口村落各地築きあげたが、レドゥクシオン政策早期失敗し流浪するインディオ現れるようになったポトシ鉱山は1545年に現ボリビア多民族国南部に当たる地域発見されたが、その豊富な銀を採掘するために副王トレド改革によって定められミタ制により、多くインディオティティカカ湖周辺クスコから集められ奴隷労働従事させられた。インディオはこの鉱山ミタ恐れ共同体離脱するなどの手段によってミタ逃れるものも少なくなかったトレド1572年水銀アマルガム法導入して生産量上げインディオ過酷な労働によって採掘され南アメリカ原産の銀は、戦争によって逼迫しフェリペ2世期のスペイン財政大い助けたポトシ銀山での強制労働によってどれだけの人口減があったか定かではないが、一説には3世紀800万人命を落としたとも主張され少なくともインカ帝国時代1000万人を越えていた人口が、1570年274万人にまで落ち込み1796年ペルーでは108万人になったとのH.F.ドビンズの推計存在するポトシの富は人間集め16世紀中に人口16万人擁する当時ロンドンよりも大き西半球最大の都市となった。こうして採掘された銀は一通り副王領循環して銀を中心とした植民地経済形成が行われた後に、パナマカルタヘナ・デ・インディアス通してスペイン送られスペイン国内での産業産み出すことなく王室貴族の間での浪費カトリック信仰防衛のための対外戦争戦費のために使われた。このようにしてスペイン流出した銀は、スペインからオランダイングランドフランスなどに流出しヨーロッパ価格革命支え原動力となった。更にこの銀はヌエバ・エスパーニャ副王領現在のメキシコ)にまで流入しメキシコ商人主導したメキシコアカプルコフィリピンマニラを結ぶガレオン貿易に際して、清(中国)の製品購入してイスパノアメリカもたらすために決済され結果的にアジアにまで流出していたのである物流進展伴って人の移動もまた加速した農業ではアシエンダ制発展し教会や一スペイン人土地奪われインディオは、農園でも奴隷労働力として酷使された。アフリカからも黒人奴隷導入され黒人奴隷海岸地方コスタ)の砂糖プランテーション労働力となったこうした複雑な要因積み重なった結果18世紀までペルーでも多くラテンアメリカ諸国同様にクリオーリョ現地生まれ白人)が大多数インディオメスティーソ黒人支配するピラミッド構造の上に、ペニンスラール本国から派遣されスペイン人)の役人君臨する社会体制築かれた。そしてこのような植民地支配に対してインディオメスティーソや一部のクリオーリョは、インカ王権アイデンティティ求めて反乱繰り返した1730年コチャバンバでのアレホ・カラタユーの反乱1739年オルロでのインカの子孫を名乗ったクリオーリョのフアン・ベレス・デ・コルドバの反乱1742年アンデス山脈東嶺セルバでのフアン・サントス・アタワルパ(英語版)の反乱などが主なものであり、これらの反乱はいずれ鎮圧されたが、1780年起こったトゥパク・アマルー2世の大反乱先駆となった。これらの反乱の背景には、17世紀インカ皇帝の子孫だったメスティーソインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ著書、『インカ皇統記(スペイン語版英語版)』によって神聖化されたインカ王権イメージ影響があったとされており、「インカ・ナショナリズム」と名付けられるこの思想潮流白人をも含む多く現地エリート惹きつけていた。 1717年ペルー副王領からボゴタ主都パナマカラカスキトを含む地域が、イギリス攻撃備えることを目的ヌエバ・グラナダ副王領として分離された。ヌエバ・グラナダ副王領は一旦廃止されたものの、1739年復活したペルー衰退は、それまで貿易特権により、リマ商人パナマ地峡経由してヨーロッパとの貿易を行う必要があったブエノスアイレスチリベネズエラなどのペルー副王領内の周辺的地域が、ヨーロッパとの直接交易可能になった1748年以降相対的に進行して行った植民地時代リマでは都市文化栄えており、特に1761年から1776年まで着任した副王アマトリマ市街地整備演劇振興尽力した1759年即位したスペイン王カルロス3世衰退迎えていたスペイン帝国復興のために、1776年ボルボン改革実施し、その一環として植民地再編図った1776年にはポルトガル領ブラジルからラ・プラタ地域現在のアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイ)を防衛するためにリオ・デ・ラ・プラタ副王領ペルー副王領から分離されリオ・デ・ラ・プラタ副王領にはアルト・ペルーもが編入された。リオ・デ・ラ・プラタ副王領以降リマ介さずに、副王領主都となったブエノスアイレスから直接ヨーロッパ貿易を行うようになったその他にも新税の導入や、レパルティミエント腐敗一掃するためにコレヒドール制に代わってインテンデンテ制が導入されたが、ペニンスラール中心に据えた改革クリオーリョからインディオまで多く植民地人に大きな不満をもたらした植民地人がボルボン改革に不満を抱く中、1780年にトゥパク・アマルーの子孫だった運送業者ホセ・ガブリエル・コンドルカンキトゥパク・アマルー2世名乗りインディオメスティーソ動員してクリオーリョ支配層に対す反抗スペイン王への忠誠名目反乱起こしたホセ・ガブリエル・コンドルカンキミタ制レパルティミエントボルボン改革による新税の廃止などを掲げており、当初反乱白人含んだ大衆反乱だったが、次第貧困層インディオ主体とした反乱軍スペイン王治下改革から理想化されインカ帝国復興目標変え、その過程の中で白人対す暴行殺害相次ぐうになると、当初協力的だった白人支持次第失いトゥパク・アマルー2世部下の裏切りにより捕らえられ先祖同様にクスコ広場処刑された。1781年にはアルト・ペルーでもトゥパク・アマルー2世呼応したトゥパク・カタリ反乱起こし二度渡ってラパス包囲したが、白人層やカトリック教会への苛烈態度によって彼等支持を得ることができず、カシーケ支持もなかったために同年捕えられて処刑された。これらの反乱全て失敗おわったものの、スペイン王室によるペルー副王領支配大きく揺るがせ、後のペルー喪失遠因となった

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スペイン植民地時代(1516年-1810年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「スペイン植民地時代(1516年-1810年)」の解説

スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 1492年スペイン王室雇われジェノヴァ人の航海クリストーバル・コロンアメリカ大陸「発見」すると、以後南北アメリカスペインポルトガルイギリスフランス主とするヨーロッパ諸国によって植民地化されることになった現在のアルゼンチン相当する地域トルデシリャス条約に基づきスペイン優先権認められていたために、アルゼンチン1516年スペイン人征服者フアン・ディアス・デ・ソリス到来によって「発見」され、植民地化始まった1522年エステバン・ゴメスによるマルビナス諸島「発見」1526年セバスチャン・カボット航海などを経て1536年バスク人貴族ペドロ・デ・メンドーサによってラプラタ川河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・ブエン・アイレが建設されたことにより、スペイン定住植民地となったヨーロッパ人の到達以降、この地に居住していた人々は、自らがインド到達した思いながら死んでいったコロン因み、「インディオ」(インド人)と呼ばれるようになった1536年建設されブエン・アイレ食糧不足インディオ襲撃のため短期間放棄されラ・プラタ川中心植民団の生き残りによって1541年建設された現パラグアイアスンシオン移った1553年現存するアルゼンチン最古都市サンティアゴ・デル・エステロ建設され1580年ブエノスアイレス再建された後、スペイン人大西洋側、ペルー双方から各地都市築き都市ではヨーロッパ的な生活が行われ、アフリカアンゴラコンゴからバントゥー系黒人奴隷家内奴隷として導入された。一方農村部ではスペイン人先住民通婚進みメスティーソ混血者)が生まれた全般的にこの地域にはポトシのような豊かな鉱物資源擁する鉱山や、中米ペルーのように奴隷労働力として使用され多数インディオ用意した先住民古代文明アフリカから黒人奴隷導入して採算取れるような商品作物砂糖カカオ)の生産適した熱帯土壌存在しなかったことに加えスペインとの直接交易認められず、ペルー副王領時代交易ペルーリマや、パナマを介して行われたため、スペイン人がこの地を開発する動き余り大きくならなかった。また、1588年からイエズス会初めとするカトリック教会が主に先住民カトリック布教行い現在のパラグアイアルゼンチン北部ウルグアイブラジル南部ボリビア東部ではグアラニー族対すイエズス会布教村落築かれた。アシエンダ制からなるラティフンディオ(大規模農園アルゼンチンウルグアイではエスタンシア呼ばれる)はこの時期生まれることになる。 こうした中で、16世紀中にパンパ放牧され牛馬初めとする家畜自然に任せて繁殖すると、以降この家畜から取れ皮革や肉、さらには農耕軍事使われる家畜そのものラ・プラタ地域最大商品となり、ブエノスアイレス支えたこのような放牧を主産業にした産業構造は、現在までアルゼンチンウルグアイブラジル南部経済構造のみならずガウチョフォルクローレなどのような民衆文化にも大きな影響残している。大西洋側でこのような牧畜経済進展する一方で内陸部にはアルト・ペルーポトシ消費市場を軸にしたワイン消費財生産が行われた。 1680年ポルトガルブエノスアイレス対岸コロニア・ド・サクラメント建設すると、現在のウルグアイ相当する地域バンダ・オリエンタル)はアメリカ大陸においてスペインとポルトガル勢力衝突する最前線となり、1750年マドリード条約のように帰属を巡る各種条約結ばれ、この地域スペイン領ポルトガル領帰属幾度となく変更することになる。この構図最終的に植民地時代通して独立後まで続いた1759年スペイン王カルロス3世即位しボルボン改革実施すると、改革一環としてイエズス会弾圧する政策を採ると1754年グアラニー戦争勃発したイエズス会士グアラニー族敗北により、スペイン領ではイエズス会伝道所築かれ地域から1767年イエズス会追放されポルトガル領ブラジルでは1759年)、この地に存在したイエズス会による宗教国家様相呈していた布教村落滅亡しスペインとポルトガル王権組み込まれていった植民地時代通してアルゼンチンの手工業マニュファクチュア)の中心は、インカ文明影響残っていたサン・ミゲル・デ・トゥクマンサルタなどの北西部や、内陸部コルドバであったが、カルロス3世によるボルボン改革一環としてペルー副王領からこの地域切り離され1776年リオ・デ・ラ・プラタ副王領として再編成された。こうして新たに副王領首都となったブエノスアイレスでは、従来のようにペルー経由しないヨーロッパとの直接貿易進み急速に成長したブエノスアイレス成長が進むと、畜産品を輸出しヨーロッパ製品輸入するために自由貿易を望むブエノスアイレスと、ラテンアメリカ市場における国産製品流通重視する内陸部都市対立生まれ、この対立如何に解消するかが独立後の大きな課題となった18世紀後半啓蒙思想や、その政治的表現となったアメリカ独立革命フランス革命は、ペニンスラールスペイン出身者)に比べて低い地位置かれていたラ・プラタ地域クリオーリョにも大きな影響与えていたが、ナポレオン戦争勃発し戦争による本国との貿易量の減少によって、アルゼンチンにおいてもヨーロッパ諸国アメリカ合衆国との間になし崩し的自由貿易実現された。イギリススペイン混乱に陥っている間にラ・プラタ地域占領しようと1806年ブエノスアイレス侵攻したが、この侵攻軍をクリオーリョ民兵隊が副王政府の力によらない独自の軍事力打ち破ったことにより、クリオーリョ達により徹底した自由貿易への欲望からなる自治拡大意識芽生えた1808年勃発したスペイン独立戦争により、スペイン・ボルボン朝崩壊するとこの自治動き大陸的規模拡大し最終的にラテンアメリカ諸国の独立繋がった教育面では、1613年内陸部コルドバコルドバ大学設立されコルドバ大学以降植民地時代通して南米南部教育中心となった

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