スペイン植民地時代(1565年-1898年)
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「フィリピンにおける死刑」の記事における「スペイン植民地時代(1565年-1898年)」の解説
反逆罪と軍隊犯罪には銃殺刑、一般犯罪にはスペインと同じ鉄環絞首刑が執行されていた。ホセ・リサールがスペイン政府により1896年12月30日の朝、銃殺執行隊によって処刑された。
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スペイン植民地時代(1516年-1811年)
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「ウルグアイの歴史」の記事における「スペイン植民地時代(1516年-1811年)」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 1492年にクリストーバル・コロン(クリストファー・コロンブス)がアメリカ大陸を「発見」すると、南北アメリカ大陸全体にヨーロッパ人の征服者が押し寄せた。現在のウルグアイに相当するラ・プラタ川の河口部にも、1516年にスペインの探険家フアン・ディアス・デ・ソリスが初のヨーロッパ人として到達した。しかし、先住民を征服しようとしたソリスは、逆にチャルーア族に殺害されてしまった。1519年にはフェルナン・デ・マガリャンイス(フェルディナンド・マゼラン)の船団がこの地を訪れ、1526年のセバスティアーノ・ガボートの探検隊が後に続き、ガボートはパラナ川にまで到達した。ヨーロッパ人の到来以降、この地の住民はインディオと呼ばれるようになった。 平坦な丘陵が続き、特に鉱物資源が無く、チャルーア人のような強力なインディオが支配していたこの地はスペイン植民地の中でも特に植民が遅れることになったが、1574年にはスペイン人による初の入植地であるサン・サルバドルが現在のドローレス(英語版)に建設された。その後1603年にスペイン人が牛を放牧すると、以降この地には爆発的に野生の牛馬が増殖し、やがてこれを取り合ってのスペイン、ポルトガル両国の争いが始まり、バンダ・オリエンタル(ウルグアイ川東岸地帯)は両国の係争地帯となった。こうした中で、1624年に現在まで残る最初の村落ヴィジャ・ソリアーノ(英語版)が、スペインのイエズス会伝道団によってネグロ川とウルグアイ川流域(現ソリアノ県西部)に建設された。 南米に於けるスペインとポルトガルの抗争は、現在のパラグアイ一帯に存在したイエズス会の布教村落をポルトガル領ブラジル(英語版)から侵入した奥地探検隊バンデイランテスが襲撃し、はじめて住民のグアラニー系インディオをブラジルに奴隷として連行した1629年より激化し、1641年にポルトガル勢力がムボロレーの戦い(スペイン語版)でイエズス会に敗北してからは一時的な小康を見せたが、1680年にブラジルから侵入したポルトガル人が、トルデシリャス条約を無視して、ブエノスアイレスとの密貿易のためにコロニア・ド・サクラメントを建設したことによってこの争いは再び激化した。コロニアは密輸の拠点として栄え、幾度もスペインとポルトガルの間で帰属を変えた。1726年にブエノスアイレス総督ブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラ(スペイン語版)は、コロニアのポルトガル人に対向するために、ラ・プラタ川河口の東岸にモンテビデオを建設した。1750年のマドリード条約(英語版)によってスペインはコロニア・ド・サクラメントを得る代わりにその他の全てのバンダ・オリエンタルを放棄し、1761年のエル・パルド条約でコロニアをも放棄したが、最終的に1777年のサン・イルデフォンソ条約により、バンダ・オリエンタルと全ミシオネスのスペイン領有が確定した。また、ウルグアイ川東岸の7つの布教村落の帰属を巡って、1754年と1756年にイエズス会士と伝道地のグアラニー人がスペイン、ポルトガル勢力を相手にグアラニー戦争(英語版)を起こしている。この事件の後、スペイン領からイエズス会が追放されたのは1767年であった。 このスペインとポルトガルの係争の最中に入植したスペイン人は、土着化してクリオーリョとなった。バンダ・オリエンタルには家内奴隷としてアフリカから極少数の黒人が連行され、スペイン人とポルトガル人の戦いの最中にもチャルーア人をはじめとするインディオ諸族とクリオーリョの戦いが続いた。家畜を追って生計を立てるガウーチョと呼ばれる人々も登場し、彼等による独自の文化様式が栄えた。 1776年にはカルロス3世によるボルボン改革によって、ペルー副王領から現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアを包括する地域がブエノスアイレスを主都としたリオ・デ・ラ・プラタ副王領として分離され、モンテビデオはブエノスアイレスに次ぐ副王領内で第二の港として成長することになった。18世紀後半になると、ブエノスアイレスのクリオーリョ達は自由貿易を望むようになった。 1789年にフランス革命が勃発してヨーロッパの政情が大混乱に陥ると、本国スペインがフランスと同盟したため、1806年にイギリス軍がラ・プラタ地域を侵略(英語版)し、ブエノスアイレスから撤退してきたイギリス軍によりモンテビデオが占領されたが、ブエノスアイレスではポルテーニョ(英語版)民兵隊によってイギリス軍が破られ、1807年にイギリス軍は撤退した。この戦いにより一時的に自由貿易を経験したポルテーニョ達の間には、自由貿易実践への欲望と、更なる自治への自信が芽生えた。 1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがスペイン国王のフェルナンド7世を追放して、兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。フェルナンド7世の退位を認めなかったポルテーニョ達は、1810年5月にブエノスアイレスでカビルド・アビエルト(開かれた議会)を開き、五月革命が達成されてコルネリオ・サーベドラやマリアーノ・モレーノをはじめとするクリオーリョがスペイン人から権力を奪取したが、バンダ・オリエンタルはコルドバ、パラグアイ、アルト・ペルーと共にブエノスアイレスのこの措置を認めなかった。
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スペイン植民地時代 (1537年-1811年)
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「パラグアイの歴史」の記事における「スペイン植民地時代 (1537年-1811年)」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 1537年8月15日、聖母の被昇天の日にブエノスアイレスから出発したスペインの探検家によってパラグアイ川の畔にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオンが建設された。先住のグアラニー族たちは、スペイン人と出会うと女性を提供し、共存を受け入れた。1542年にはラ・プラタ地方の地方長官として、ブエノスアイレスが放棄されていたためアスンシオンにカベサ・デ・バカが派遣されたが、風紀の粛正に努めたカベサ・デ・バカは1545年に現地化したスペイン社会の代表者イララ(スペイン語版)によって追放されてしまった。当初グアラニー族たちは共通の敵だった狩猟民との戦いを目的にスペイン人と蜜月関係を築いていたが、1556年にエンコミエンダ制が導入され、グアラニー族がスペイン人に分配されるようになると、それまで「義兄弟」だったグアラニー族とスペイン人の関係は一挙に険悪なものとなり、1579年に起きたオベラーの反乱のように、16世紀後半を通してグアラニー族の反乱が相次いだ。パラグアイでは当初エンコミエンダ制として、グアラニー族の拡大家族制度テピイを基盤に先住民を生涯を通して奴隷労働力とするヤナコナ制が採用されたが、後にヤナコナ制は先住民を一定期間の労働力として使用するミタ制に取って代わられた。 イララの死後、ガライ、エルナンダリアス(スペイン語版)とパラグアイの司令官は替わり、ガライの代にはアスンシオンからの殖民団によってサンタ・フェ(1573)やブエノスアイレス(1580)などの都市が建設された。16世紀後半にはインディオへのキリスト教の布教のために1575年にフランシスコ会が、1588年にイエズス会が到着し、エルナンダリアスはフランシスコ会の布教村落の建設を後押しする一方で、イエズス会の布教村落(レドゥクシオン)に対してはイエズス会の要請を聞き入れ、布教村落内の先住民の自由を認める決定をスペイン王に承認させた。 1611年にイエズス会の強い働きかけによって、インディアス審議会がエンコメンデーロによる奴隷労働からのインディオの解放を定めたアルファロの法令を発令すると、インディオの奴隷労働力を奪われることからこの法令に反対したパラグアイのスペイン人社会とイエズス会の敵対は激しいものとなったが、それでもこの法令によってイエズス会の布教村落に暮らすインディオがエンコミエンダから解放されることが法的に認められた。アルファロの法令の発令以降イエズス会の布教村落は王室の保護の下で大発展を遂げ、以降パラグアイではスペイン人社会とイエズス会の布教村落の二重社会が形成された。1618年にパラグアイからラ・プラタ地方が分離され、ラ・プラタはブエノスアイレスを中心とする独自の司令官区となった。 一方、パラグアイはポルトガルの脅威に曝されていた。ポルトガル領ブラジル(英語版)のサンパウロを拠点とする武装探検隊、バンデイランテの奴隷狩り遠征隊が1629年のサン・アントニオ村襲撃を契機に、グアイラ地方のイエズス会布教村落をも襲撃するようになったのである。このサン・アントニオ村襲撃事件を受けてイエズス会のアントニオ・ルイス・モントーヤ(スペイン語版)はグアイラ地方の12,000人を率いて現アルゼンチンのミシオネス州に撤退し、翌1632年のバンデイランテの襲撃によって以降グアイラ地方はブラジル領(現パラナ州)の一部となった。バンデイランテの襲撃に抵抗したイエズス会はスペインの権力から独自にバンデイランテへの対策を講じ、1641年3月のムボロレーの戦い(スペイン語版)でグアラニー族を率いて約2,950人からなるバンデイランテの侵攻軍を破り、以降バンデイランテの襲撃は小規模なものとなった。その後、1680年にブラジルからのバンデイランテがスペイン領だったウルグアイ川東岸にコロニア・ド・サクラメントを築き、ブエノスアイレスのスペイン人に脅威を与えるようになると、布教村落のグアラニー族はこの時の戦いに3,000人の兵力を供出し、ポルトガルと戦った。 1630年にイエズス会パラグアイ管区長がインディオ保護官に就任することが定められた後、18世紀に入る頃にはイエズス会の布教村落の数は30に達し、最盛期の1730年には人口14万人を数えた。アルト・パラナ川とウルグアイ川の狭間の地域の約10万平方kmに存在したこの30の布教村落は「イエズス会国家」とも呼ばれ、イエズス会士とグアラニー族によって高度な自治が展開された。布教村落の男性は職業に関わりなく戦士として武装し、イエズス会士やスペイン軍の軍人によって指揮され、スペインの戦争に動員された。経済面では、布教村落の土地制度は各家族に割り当てられたアバムバエと共有地のトゥパムバエに別れ、後者がより一般的なものとなった。トゥパムバエでは牧畜やマテ茶の栽培が行われ、布教村落で栽培されたマテ茶は産業に乏しいパラグアイ最大の輸出商品となった。また、経済的に豊かな地域からは地理的に隔絶されていたために、経済の自給自足化と、それを支えるための技術が発達し、綿織物や皮革、木製品などの輸出商品を生産するにまで至った。文化面では、トリニダードの教会のような煉瓦製の教会の建造や、グアラニー・バロックの聖像製作、グアラニー語の辞典や文法書の編纂とグアラニー語そのものの実用言語化、ヨーロッパの音楽の導入といったような文化的な事業が、ヨーロッパ諸国から派遣されたイエズス会士と現地グアラニー族の信徒によって進められた。布教村落のインディオは当時のラ・プラタ地方の一般的なスペイン人よりも高度な医療を享受していると看做されており、より豪華な住居で暮らしていたと考えられる。 1680年にポルトガルによってブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントが建設されたことは、ラ・プラタ川流域を巡るスペインとポルトガルの対立を激化させていたが、この対立は、1750年に締結されたマドリード条約(英語版)によって、ポルトガルがコロニア・ド・サクラメントと、実効支配していないフィリピンをスペインに譲渡することと引き変えに、アマゾン川流域と現在のブラジル南部の広大な地域をスペインから獲得するという取り引きを経て解消に向かうことになった。この条約でスペインからポルトガルに引き渡されることとなったウルグアイ川東岸の7つの教化村を引き渡すことは、住民のイエズス会士とグアラニー族の強い抵抗を惹き起こしたが、1754年と1756年のスペイン=ポルトガル連合軍による征討(グアラニー戦争(英語版))によって7つの教化村は強制移住を余儀なくされた。この事件によってイエズス会の権威は低落し、最終的にはカトリック教会からの王権の強化を図った国王カルロス3世によって、1767年にスペイン全土からイエズス会は追放されることとなった。イエズス会の追放によって布教村落の歴史も終焉し、イエズス会に代わって新たな統治者となったフランシスコ会、ドミニコ会、メルセード会はグアラニー族の収奪のみに専念したため、グアラニー族の文化を育んだ布教村落の形態そのものも衰退の一途を辿った。 1776年にカルロス3世が啓蒙専制主義改革の一環としてブエノスアイレスを主都としたリオ・デ・ラ・プラタ副王領をペルー副王領から分離すると、パラグアイも新たに創設された副王領の一部となった。
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スペイン植民地時代(1542年-1824年)
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「ペルーの歴史」の記事における「スペイン植民地時代(1542年-1824年)」の解説
詳細は「ヌエバ・カスティーリャ(スペイン語版、英語版)」、「ヌエバ・トレド(スペイン語版、英語版)」、および「ペルー副王領」を参照 スペイン植民地下のペルーには、1542年にペルー副王領が設立され、行政の中心地はアンデス山脈中のクスコから、太平洋沿岸のリマに移された。リマはスペインの南アメリカ支配の本拠地として栄え、1550年にはサン・マルコス大学が建設された。征服の時代にはエンコミエンダを割り当てられた征服者(エンコメンデーロ)による気ままな支配が行われていたが、アルト・ペルーがスペイン王の植民地としての制度を整えた頃から、エンコメンデーロを排斥するため、国王によって任命された任期5年のコレヒドール(地方行政官)と、コレヒドールによって使役されるインディオのカシーケ(首長)による支配体制が確立された。しかし、コレヒドールの給与は生活を送るには低すぎたために、多くのコレヒドールはレパルティミエント(商品強制分配)を利用してインディオに商品を不当な価格で売買し、私財を蓄えることを常とした。このことはインディオの怨嗟を招くと同時に植民地行政の腐敗の温床となった。植民地時代を通してコレヒドールはレパルティミエントによる搾取のみならず、ミタ制と呼ばれるカシーケを通じたインディオ共同体への賦役、貢納を要請し、特に3世紀の間に800万人の死者を出したポトシ銀山をはじめとする鉱山でのミタは、多くのインディオ共同体に甚大な被害を与えた。コレヒドール制やミタ制の導入といった植民地支配のための官僚機構の整備は、1569年から1581年まで着任したペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治によって完成された。アメリカ大陸の住民の征服と、それに伴う数多の犯罪行為を思想的に正当化するために、キリスト教カトリック教会がスペインの精神的な支柱の役割を果たしたため、1546年にはリマに大司教座が設置され、ドミニコ会、フランシスコ会、メルセー会、イエズス会などの修道会がインディオへのカトリックの布教を大々的に進めた。この他にもトレドはインディオを強制集住させてレドゥクシオンと呼ばれる人口村落を各地に築きあげたが、レドゥクシオン政策は早期に失敗し、流浪するインディオが現れるようになった。 ポトシ鉱山は1545年に現ボリビア多民族国の南部に当たる地域に発見されたが、その豊富な銀を採掘するために副王トレドの改革によって定められたミタ制により、多くのインディオがティティカカ湖周辺やクスコから集められ、奴隷労働に従事させられた。インディオはこの鉱山のミタを恐れ、共同体を離脱するなどの手段によってミタを逃れるものも少なくなかった。トレドは1572年に水銀アマルガム法を導入して銀生産量を上げ、インディオの過酷な労働によって採掘された南アメリカ原産の銀は、戦争によって逼迫したフェリペ2世期のスペインの財政を大いに助けた。ポトシ銀山での強制労働によってどれだけの人口減があったかは定かではないが、一説には3世紀で800万人が命を落としたとも主張され、少なくともインカ帝国時代に1000万人を越えていた人口が、1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になったとのH.F.ドビンズの推計が存在する。ポトシの富は人間を集め、16世紀中に人口16万人を擁する、当時のロンドンよりも大きい西半球最大の都市となった。こうして採掘された銀は一通り副王領を循環して銀を中心とした植民地経済の形成が行われた後に、パナマやカルタヘナ・デ・インディアスを通してスペインに送られ、スペイン国内での産業を産み出すことなく、王室や貴族の間での浪費やカトリック信仰防衛のための対外戦争の戦費のために使われた。このようにしてスペインに流出した銀は、スペインからオランダ、イングランド、フランスなどに流出し、ヨーロッパの価格革命を支える原動力となった。更にこの銀はヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)にまで流入し、メキシコ商人が主導したメキシコのアカプルコとフィリピンのマニラを結ぶガレオン貿易に際して、清(中国)の製品を購入してイスパノアメリカにもたらすために決済され、結果的にアジアにまで流出していたのである。 物流の進展に伴って人の移動もまた加速した。農業ではアシエンダ制が発展し、教会や一般スペイン人に土地を奪われたインディオは、農園でも奴隷労働力として酷使された。アフリカからも黒人奴隷が導入され、黒人奴隷は海岸地方(コスタ)の砂糖プランテーションの労働力となった。こうした複雑な要因が積み重なった結果、18世紀までにペルーでも多くのラテンアメリカ諸国と同様にクリオーリョ(現地生まれの白人)が大多数のインディオ、メスティーソ、黒人を支配するピラミッド構造の上に、ペニンスラール(本国から派遣されたスペイン人)の役人が君臨する社会体制が築かれた。そしてこのような植民地支配に対して、インディオやメスティーソや一部のクリオーリョは、インカ王権にアイデンティティを求めて反乱を繰り返した。1730年のコチャバンバでのアレホ・カラタユーの反乱、1739年のオルロでのインカ王の子孫を名乗ったクリオーリョのフアン・ベレス・デ・コルドバの反乱、1742年のアンデス山脈東嶺セルバでのフアン・サントス・アタワルパ(英語版)の反乱などが主なものであり、これらの反乱はいずれも鎮圧されたが、1780年に起こったトゥパク・アマルー2世の大反乱の先駆となった。これらの反乱の背景には、17世紀にインカ皇帝の子孫だったメスティーソのインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガの著書、『インカ皇統記(スペイン語版、英語版)』によって神聖化されたインカ王権のイメージの影響があったとされており、「インカ・ナショナリズム」と名付けられるこの思想潮流は白人をも含む多くの現地エリートを惹きつけていた。 1717年にペルー副王領からボゴタを主都にパナマ、カラカス、キトを含む地域が、イギリスの攻撃に備えることを目的にヌエバ・グラナダ副王領として分離された。ヌエバ・グラナダ副王領は一旦廃止されたものの、1739年に復活した。ペルーの衰退は、それまで貿易特権により、リマ商人とパナマ地峡を経由してヨーロッパとの貿易を行う必要があったブエノスアイレスやチリ、ベネズエラなどのペルー副王領内の周辺的な地域が、ヨーロッパとの直接交易が可能になった1748年以降相対的に進行して行った。植民地時代のリマでは都市文化が栄えており、特に1761年から1776年まで着任した副王アマトはリマの市街地整備や演劇の振興に尽力した。 1759年に即位したスペイン王カルロス3世は衰退を迎えていたスペイン帝国の復興のために、1776年にボルボン改革を実施し、その一環として植民地の再編を図った。1776年にはポルトガル領ブラジルからラ・プラタ地域(現在のアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイ)を防衛するためにリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領にはアルト・ペルーもが編入された。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は以降リマを介さずに、副王領の主都となったブエノスアイレスから直接ヨーロッパと貿易を行うようになった。その他にも新税の導入や、レパルティミエントの腐敗を一掃するためにコレヒドール制に代わってインテンデンテ制が導入されたが、ペニンスラールを中心に据えた改革はクリオーリョからインディオまで多くの植民地人に大きな不満をもたらした。植民地人がボルボン改革に不満を抱く中、1780年にトゥパク・アマルーの子孫だった運送業者のホセ・ガブリエル・コンドルカンキはトゥパク・アマルー2世を名乗り、インディオやメスティーソを動員してクリオーリョ支配層に対する反抗とスペイン王への忠誠を名目に反乱を起こした。ホセ・ガブリエル・コンドルカンキはミタ制、レパルティミエント、ボルボン改革による新税の廃止などを掲げており、当初反乱は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第に貧困層のインディオを主体とした反乱軍がスペイン王治下の改革から理想化されたインカ帝国の復興に目標を変え、その過程の中で白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失い、トゥパク・アマルー2世は部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。1781年にはアルト・ペルーでもトゥパク・アマルー2世に呼応したトゥパク・カタリが反乱を起こし、二度に渡ってラパスを包囲したが、白人層やカトリック教会への苛烈な態度によって彼等の支持を得ることができず、カシーケの支持もなかったために同年捕えられて処刑された。これらの反乱は全て失敗におわったものの、スペイン王室によるペルー副王領支配を大きく揺るがせ、後のペルー喪失の遠因となった。
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スペイン植民地時代(1516年-1810年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「スペイン植民地時代(1516年-1810年)」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 1492年にスペイン王室に雇われたジェノヴァ人の航海家クリストーバル・コロンがアメリカ大陸を「発見」すると、以後南北アメリカはスペイン、ポルトガル、イギリス、フランスを主とするヨーロッパ諸国によって植民地化されることになった。 現在のアルゼンチンに相当する地域はトルデシリャス条約に基づき、スペインの優先権が認められていたために、アルゼンチンは1516年のスペイン人の征服者フアン・ディアス・デ・ソリスの到来によって「発見」され、植民地化が始まった。1522年のエステバン・ゴメスによるマルビナス諸島の「発見」、1526年のセバスチャン・カボットの航海などを経て、1536年にバスク人の貴族ペドロ・デ・メンドーサによってラプラタ川河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・ブエン・アイレが建設されたことにより、スペインの定住植民地となった。ヨーロッパ人の到達以降、この地に居住していた人々は、自らがインドに到達したと思いながら死んでいったコロンに因み、「インディオ」(インド人)と呼ばれるようになった。 1536年に建設されたブエン・アイレは食糧不足とインディオの襲撃のため短期間で放棄され、ラ・プラタ川の中心は植民団の生き残りによって1541年に建設された現パラグアイのアスンシオンに移った。1553年現存するアルゼンチン最古の都市、サンティアゴ・デル・エステロが建設され、1580年にブエノスアイレスも再建された後、スペイン人は大西洋側、ペルー側双方から各地に都市を築き、都市ではヨーロッパ的な生活が行われ、アフリカのアンゴラやコンゴからバントゥー系の黒人奴隷が家内奴隷として導入された。一方農村部ではスペイン人と先住民の通婚が進み、メスティーソ(混血者)が生まれた。 全般的にこの地域にはポトシのような豊かな鉱物資源を擁する鉱山や、中米やペルーのように奴隷労働力として使用された多数のインディオを用意した先住民の古代文明、アフリカから黒人奴隷を導入しても採算の取れるような商品作物(砂糖、カカオ)の生産に適した熱帯の土壌は存在しなかったことに加え、スペインとの直接の交易が認められず、ペルー副王領時代の交易はペルーのリマや、パナマを介して行われたため、スペイン人がこの地を開発する動きは余り大きくならなかった。また、1588年からイエズス会を初めとするカトリック教会が主に先住民にカトリックの布教を行い、現在のパラグアイやアルゼンチン北部、ウルグアイ、ブラジル南部、ボリビア東部ではグアラニー族に対するイエズス会の布教村落が築かれた。アシエンダ制からなるラティフンディオ(大規模農園。アルゼンチン、ウルグアイではエスタンシアと呼ばれる)はこの時期に生まれることになる。 こうした中で、16世紀中にパンパに放牧された牛馬を初めとする家畜が自然に任せて大繁殖すると、以降この家畜から取れる皮革や肉、さらには農耕や軍事に使われる家畜そのものがラ・プラタ地域最大の商品となり、ブエノスアイレスを支えた。このような放牧を主産業にした産業構造は、現在までアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部の経済構造のみならず、ガウチョやフォルクローレなどのような民衆文化にも大きな影響を残している。大西洋側でこのような牧畜経済が進展する一方で、内陸部にはアルト・ペルーのポトシの消費市場を軸にしたワインや消費財の生産が行われた。 1680年にポルトガルがブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設すると、現在のウルグアイに相当する地域(バンダ・オリエンタル)はアメリカ大陸においてスペインとポルトガルの勢力が衝突する最前線となり、1750年のマドリード条約のように帰属を巡る各種の条約が結ばれ、この地域はスペイン領とポルトガル領に帰属を幾度となく変更することになる。この構図は最終的に植民地時代を通して独立後まで続いた。 1759年にスペイン王カルロス3世が即位し、ボルボン改革を実施すると、改革の一環としてイエズス会を弾圧する政策を採ると1754年にグアラニー戦争が勃発した。イエズス会士とグアラニー族の敗北により、スペイン領ではイエズス会伝道所が築かれた地域から1767年にイエズス会が追放され(ポルトガル領ブラジルでは1759年)、この地に存在したイエズス会による宗教国家の様相を呈していた布教村落は滅亡し、スペインとポルトガル王権に組み込まれていった。 植民地時代を通してアルゼンチンの手工業(マニュファクチュア)の中心は、インカ文明の影響が残っていたサン・ミゲル・デ・トゥクマンやサルタなどの北西部や、内陸部のコルドバであったが、カルロス3世によるボルボン改革の一環としてペルー副王領からこの地域は切り離され、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領として再編成された。こうして新たに副王領の首都となったブエノスアイレスでは、従来のようにペルーを経由しないヨーロッパとの直接貿易が進み、急速に成長した。ブエノスアイレスの成長が進むと、畜産品を輸出し、ヨーロッパの製品を輸入するために自由貿易を望むブエノスアイレスと、ラテンアメリカ市場における国産製品の流通を重視する内陸部諸都市の対立が生まれ、この対立を如何に解消するかが独立後の大きな課題となった。 18世紀後半の啓蒙思想や、その政治的表現となったアメリカ独立革命やフランス革命は、ペニンスラール(スペイン出身者)に比べて低い地位に置かれていたラ・プラタ地域のクリオーリョにも大きな影響を与えていたが、ナポレオン戦争が勃発し、戦争による本国との貿易量の減少によって、アルゼンチンにおいてもヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国との間になし崩し的な自由貿易が実現された。イギリスはスペインが混乱に陥っている間にラ・プラタ地域を占領しようと1806年にブエノスアイレスに侵攻したが、この侵攻軍をクリオーリョ民兵隊が副王政府の力によらない独自の軍事力で打ち破ったことにより、クリオーリョ達により徹底した自由貿易への欲望からなる自治拡大の意識が芽生えた。1808年に勃発したスペイン独立戦争により、スペイン・ボルボン朝が崩壊するとこの自治の動きは大陸的な規模で拡大し、最終的にはラテンアメリカ諸国の独立に繋がった。 教育面では、1613年に内陸部のコルドバにコルドバ大学が設立され、コルドバ大学は以降植民地時代を通して南米南部の教育の中心となった。
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