スペイン植民地時代および独立前後のメキシコとユカタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 19:30 UTC 版)
「ユカタン共和国」の記事における「スペイン植民地時代および独立前後のメキシコとユカタン」の解説
1617年にヌエバ・エスパーニャのユカタン総監領 (es:Capitanía General de Yucatán) が成立したが、副王のもとで多少の自治が認められていた。その範囲は今のユカタン州、カンペチェ州、キンタナ・ロー州、タバスコ州のほか、グアテマラのペテン県北部とベリーズに相当する地域が含まれていた。1786年にブルボン改革の一環としてインテンデンシア制が導入され、同地域はユカタン・インテンデンシアになった。 1810年にミゲル・イダルゴがドロレスの叫びを発し、メキシコ独立革命戦争がはじまった。1821年にアグスティン・デ・イトゥルビデおよびビセンテ・ゲレロはイグアラ綱領を発して新国家の目標を「宗教、独立、統一」の3つの保証と定めた。1822年7月21日にイトゥルビデはメキシコ第一帝政の皇帝アグスティン1世として即位した。 しかしメキシコシティから遠く離れたユカタン地方では独立革命の影響は限定されていた。ユカタンの知識人はメリダのサンフアン教会でスペインからの独立のための会議を定期的に開き、教会の名前からサンフアニスタ (es:sanjuanistas) と呼ばれた。1812年にカディス憲法が公布されると、サンフアニスタの勢力も増大した。しかし1814年にフェルナンド7世はカディス憲法を破棄し、サンフアニスタは粛清されて逮捕・投獄された。 1820年に元サンフアニスタのロレンソ・デ・サバラ(英語版)は愛国連合(Confederación Patriótica)を創立したが、連合は2派に分裂した。ひとつはスペインとカディス憲法の支持者であり、サバラの率いるもう1派はスペインからの完全な独立を目指していた。時のユカタン総督マリアノ・カリージョ・デ・アルボルノスはサバラらを強制的にスペイン国会の代議員としてマドリードに送り、他の自由主義者たちを投獄するよう命令した。 1821年にアルボルノスを継いで総督に就任したエチェベリはユカタン半島のスペインからの独立を宣言した。1821年11月2日にユカタンはメキシコ帝国に併合された。 1822年12月にアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナおよびグアダルーペ・ビクトリアがメキシコを共和国とするカサ・マタ綱領(英語版)に署名し、アグスティン1世は退位を強制されて亡命した。これに対してユカタンは1823年4月27日に主権をもつことを表明し、5月29日にユカタン共和国(第一共和国)が成立したが、12月23日には自主的にメキシコ連邦共和国を構成する連邦制度上の1共和国になった。その後1824年メキシコ憲法によってメキシコ合衆国が成立し、ユカタンはその1州となった(タバスコは別の州)。
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