スペイン植民地の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 07:08 UTC 版)
「ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の記事における「スペイン植民地の危機」の解説
フランス革命戦争中の1801年、スペインがフランスに味方してポルトガルを攻撃したため、オレンジ戦争(英語版)が勃発した。戦闘自体はお互いに勝負ありだったが、結果はポルトガルの利益にかなうものだった。ポルトガルはスペインとの国境(英語版)にあるオリヴェンサをスペインに割譲したが、南米の領土を拡大した。ポルトガルはスペイン住民を追放してマットグロッソ総督領(ポルトガル語版)の領土を拡大、ポルトガルの支配をアパ川(英語版)まで伸びた。リオグランデ・ド・スル(ポルトガル語版)でもミシオネス・オリエンタレスを征服、ジャグアラン川とその南のシュイ川(英語版)まで領土を拡大した。この状態は1801年のバダホス条約でも暗黙に承認された。 フランス=スペイン同盟は短命だった。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが同盟者のスペイン王フェルナンド7世を裏切って彼を逮捕、追放して、自身の兄ジョゼフ・ボナパルトを王位につかせたのである。イスパノアメリカの植民地はジョゼフの王位を認めず、引き続きフェルナンド7世を支持した。歴史家のダナ・ガードナー・マンロー(Dana Gardner Munro)によると、「国王の廃位により、米州における彼の代表の立場が不安定になった。行政の各部署の間はすでに紛争を起こしていたが、より高い権威が存在しなくなったことで紛争が激化した」。スペインの南米植民地の1つであるリオ・デ・ラ・プラタ副王領もその問題に直面した。ブエノスアイレスの諸党派が権力闘争に明け暮れたのであった。1810年の五月革命で副王バルタサール・イダルゴ・デ・シスネロスが失脚、代わりにスペイン人を先祖とするクリオーリョで構成されるプリメラ・フンタ(英語版)が設立された。 一方、ヨーロッパではポルトガルがフランスとスペインによる侵攻に直面しており、ポルトガル王家は1808年初にブラジル首都リオデジャネイロに移転(英語版)した。摂政王太子ジョアン(後のポルトガル王ジョアン6世)は報復を計画した。彼はフランス領ギアナの侵攻を命じ、1809年1月に成功した(英語版)。彼は続いてリオ・デ・ラ・プラタ副王領に注目した。副王領は内紛の最中にあり、現地貴族はフェルナンド7世を君主に戴いて自治体を形成しようとしたが、より野心的な一派はスペイン国王からの完全独立を目指した。
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