ヨーロッパ人の入植と領有権争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 00:43 UTC 版)
「ペンサコーラ (フロリダ州)」の記事における「ヨーロッパ人の入植と領有権争い」の解説
この一帯にヨーロッパ人が訪れるようになったのは16世紀中盤にさしかかった頃であった。1528年にはスペインのパンフィロ・デ・ナルバエスの一行が、1539年には同じくスペインのエルナンド・デ・ソトの一行がその探検の中でこの地を訪れた。そして1559年、トリスタン・デ・ルナ・イ・アレヤーノがメキシコのベラクルスから11隻の船を率いて、1,400人の入植者と共にこの地に降り立ち、現在のアメリカ合衆国本土で最初のスペイン人入植地を創設した。しかし、同年9月19日にハリケーンがこの地を襲い、何百人もの死者を出し、5隻の船が沈没し、キャラベル船が座礁し、食料やその他生活用品も傷み、この入植地は壊滅した。1,000人ほどの生存者は別の場所に入植地を再設したが、飢饉や原住民の攻撃により、1561年には放棄された。240人ほどはこの地を離れ、サンタエレナ(現在のサウスカロライナ州パリスアイランド)へと向かったが、その航海の最中に別の嵐に遭い、キューバへと行先を変え、散り散りになった。この地に最終的に残った50人ほどの入植者はメキシコに戻り、西フロリダは危険すぎて入植できないと結論付けた。こうした西フロリダ観はその後135年にわたって、当地のスペイン人入植者の間に残った。 17世紀後半に入ると、フランスがルイジアナの植民地化を目論んでミシシッピ川下流域の探検を始めた。すると、スペインはそれを自国領に対する脅威として捉え、西フロリダに再び入植地を建設した。1698年、スペインはこの地に、プレシディオ・サンタ・マリア・デ・ガルベという城塞と、現代のペンサコーラの街の基礎となった村を建設した。この地は1719年にフランスに占領され、城塞もフランスのものとなった(四カ国同盟戦争・ペンサコーラ占領)。しかし、フランスによるこの地の統治は長くは続かず、3年後、1722年にスペインは再びこの地を取り返した。このとき、フランスは城塞を去る際に火を放ち、全焼させた。すると、スペインはもとの城塞からペンサコーラ湾を隔てて南、サンタローザ島のほうが他のヨーロッパ諸国やネイティブ・アメリカンによる攻撃から守りやすいと考え、その西端に、2番目の城塞となるプレシディオ・イスラ・デ・サンタ・ローザを建てた。1752年にハリケーンでこの城塞が倒壊すると、スペインは最初の城塞から8km東の本土側、現在ではペンサコーラのダウンタウンの歴史地区となっているところに、3番目の(そして最後の)城塞となったプレシディオ・サンタ・ミゲル・デ・ペンザコーラを建てた。 その次にこの地を統治下に置いたのはイギリスであった。1763年、フレンチ・インディアン戦争が終結すると、パリ条約によって、スペインはキューバと引き換えにフロリダをイギリスに引き渡した。するとイギリスは、北アメリカ14番目の植民地として西フロリダ植民地を創設し、ペンサコーラをその首都に定め、かつてのスペインの城塞であったプレシディオ・サンタ・マリア・デ・ガルベの跡地からわずか450mほどの、ペンサコーラ湾を見渡せるところにバランカス砦を建てた。 やがて独立戦争が開戦すると、1779年にスペインが参戦して植民地側につき、その翌々年の1781年にペンサコーラの戦いを制して、三たび西フロリダはスペインの統治下に入った。1783年に独立戦争が終結すると、パリ条約によって、西フロリダと東フロリダの両方がスペイン領となった。3度目のスペイン統治下では、ペンサコーラは辺境の砦の街、そして交易所として発展し、白人男性とクリーク族やアフリカ系の女性との結婚による混血家族が少なからず見られた。
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