ヨーロッパ人による発見と利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 17:52 UTC 版)
「ヒリアー湖」の記事における「ヨーロッパ人による発見と利用」の解説
マシュー・フリンダースは1802年1月15日、探検の途中でヒリアー湖に到達した。ヒリアー湖を記録した文献史料は、フリンダースの日誌が最古のものだと考えられている。彼は島内で最も高い山(「フリンダース・ピーク」と呼称されている峰ではない)に登頂してこの桃色の湖を観察し、湖について以下の様に記録している。 In the north-eastern part was a small lake of a rose colour, the water of which, as I was informed by Mr. Thistle who visited it, was so saturated with salt that sufficient quantities were crystallised near the shores to load a ship. The specimen he brought on board was of a good quality, and required no other process than drying to be fit for use.(島の北東部にはばら色をした小さな湖があり、その湖水は——ここを訪れたというThistle氏から事前に聞いた通り——塩分で飽和状態であり、結晶化した塩が航路近辺の岸に相当量みられた。彼が船へ持ってきたサンプルは非常に良質な塩で、使用するに当たり乾燥以外の加工を要しなかった。) フリンダースは1803年5月に再度ミドル島に来訪している。この時の目的については「グース島(英語版)湾に1,2日ほど滞在して病人に与える為のグース類を捕獲、灯火用の海獣油を入手した他、ミドル島の湖で塩数樽を採取した」との記録がある。また同一史料に、フリンダースが後日ウィリアム・ヒリアーの名を取ってこの湖を命名したと記録されている。ヒリアーはインベスティゲーター号(英語版)乗組員のひとりであり、1803年5月20日、ミドル島よりの帰路において赤痢の為に死没した。 1889年、エドワード・アンドリューはヒリアー湖の塩が商業利用可能か調査する為、二人の息子を伴って一時ミドル島に滞在した。彼等は塩の堆積地で一年ほど作業を行った後、離島した。 19世紀後半の間、ヒリアー湖は塩の採取地であった。製塩事業が頓挫した背景には、"食用として製造された塩の有毒性"など多くの問題があったとされる。
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