ヨーロッパ人の探検家、宣教師、貿易商
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 00:32 UTC 版)
「マラウイの歴史」の記事における「ヨーロッパ人の探検家、宣教師、貿易商」の解説
ポルトガル人は16世紀中にマラビ帝国と接触していたものの、マラビ族の指導者層まで手を伸ばすことが出来なかった。その結果、ヨーロッパ人として初めてマラウイ湖へ至り、彼らと歴史上重要な接触を行ったのは、イギリスの探検家で宣教師のデイヴィッド・リヴィングストンとなった。リヴィングストンがザンベジ川を蒸気船で遡り、マラウイ湖とその周辺を探検したのは1859年のことであった。この探検においてマラウイ湖をヨーロッパ人として初めて発見したリヴィングストンは、ヤオ族の言語であるヤオ語で湖を意味するNyasa から、ニヤサ湖と命名している。なお、奴隷貿易に反対していたリヴィングストンは、奴隷商人による探検の妨害を受けたほか、探検の途中に幾人かの従者に見放されて虚偽の死亡説を報告されたり、1867年のクリスマスには医療用カバンを盗まれたりした。その後、リヴィングストンは1873年にマラリアで没した。彼の生前の功績を称え、1876年には出身地のブランタイアにちなんだブランタイヤの町が設立されたほか、1894年には彼の名にちなんだリビングストニアの町がスコットランド自由教会の宣教師により設立されている。 リヴィングストンの探検以降、スコットランド長老派教会が、1876年にブランタイヤへ聖ミカエル及諸天使教会(en:St Michael and All Angels Church, Blantyre, Malawi)設立を行ったほか、聖公会の宣教師がリコマ島へ教会の設立を行った。これらのイギリス人宣教師達の目的のひとつには、19世紀末まで続くこととなるペルシア湾における奴隷貿易を終わらせることがあった。イギリス本国では既に1834年までに奴隷貿易の廃止を決定しており、アフリカ沿岸地域において他国の奴隷貿易の取締りを行っていたのである。1878年には、主にグラスゴー出身の貿易商を中心として、宣教師達への商品の供給や援助を目的としたアフリカン・レイク(en:African Lakes Company)が設立された。この動きに対し、その他の宣教師、貿易商、猟師、農園主などもこれに追随していった。
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