スペイン人による征服とアラウコ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:57 UTC 版)
「チリの歴史」の記事における「スペイン人による征服とアラウコ戦争」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達すると、南米にもヨーロッパ人の到来が始まった。最初に現在のチリとなっている領域を訪れたのは、ポルトガル人探検家のフェルナン・デ・マガリャンイスだった。彼は1520年、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡に到達した。 1532年、インカ帝国の皇帝アタワルパが、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。彼の遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。彼はかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる抵抗もなく成功、1541年に中央部にたどり着いた。サンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、南部ではスペイン人の戦術を取り入れたマプチェ族軍事指導者のラウタロが激しく抵抗したためスペイン勢は敗れ、バルディビアも1552年にラウタロに捕えられ戦死した。 その後、スペイン人は南部の植民地化を進めようと兵を送るが、ラウタロの死後もカウポリカン(英語版)やコロコロといったマプチェ族の戦士達の激しい抵抗によりアラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間にわたってビオビオ川を境界線にしてスペイン人とマプチェ族の断続的な戦争状態が続くこととなった。1541年に創設されたチリ総督領(スペイン語版)はペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンにアウディエンシアが設立された。 このように植民地時代のチリでは先住民との戦いや、海賊の襲撃による断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリでの主産業は、ペルー向けの小麦の生産などとなった。これは入植者に地道で手間のかかる農業を厭わない堅実な気質を育み、徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになった。 1776年、ボルボン改革によってペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土は現在の「刀の鞘」のように細長くなった。
※この「スペイン人による征服とアラウコ戦争」の解説は、「チリの歴史」の解説の一部です。
「スペイン人による征服とアラウコ戦争」を含む「チリの歴史」の記事については、「チリの歴史」の概要を参照ください。
- スペイン人による征服とアラウコ戦争のページへのリンク