スペイン人による探険と植民地化
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「ニューメキシコ州の歴史」の記事における「スペイン人による探険と植民地化」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは、1540年から1542年の間、メキシコのコンポステラに大規模な探険隊を集めた。カベサ・デ・バカが、フロリダからメキシコまでの8年間にわたる悲惨な旅の末に、ついに到着したといわれていた、伝説のシボラの7つの黄金都市を発見するためであった。カベサ・デ・バカと3人の仲間は、1527年6月17日にフロリダへ向かって、80頭の馬と残りの探険家すべてを失ったパンフィロ・デ・ナルバエス探険隊の生き残りだった。これらのカベサ・デ・バカ他4人の生存者たちは、太平洋沿岸にあるメキシコのシノロアに到着するのに大変な8年を費やし、その間に多くのインディアン部族を訪ねた。 コロナドと彼の支援者たちは、乗用と運搬用に馬とラバを1300頭、それに携帯用食糧として100個の羊と牛の頭を手に入れ、この不運な事業に財産を費やした。コロナドたちは1541年、いくつかのアドベで造られたプエブロ集落を見つけることはできたが、黄金都市は発見できなかった。アメリカ南西部やグレートプレーンズでのさらなる広範囲にわたる探険でも、素晴らしい黄金の街はどこにもなかった。すっかり落ち込んで貧窮したコロナドたちは、ニューメキシコを後にしてメキシコへ帰った。この時、おそらくコロナドの残した最もすばらしい遺産は、アメリカの平野での数頭の馬と牛の損失だった。 これらの動物は5年毎に頭数が倍増して、すぐに荒野でスクスクと育った。後に荒野に群れを成すほどになるスペインの牛と同様に、100〜150年後にはほとんどすべてのインディアンたちが乗ることになる馬の先駆けになった。 コロナドの50年以上後の1598年、フアン・デ・オニャーテは、リオ・グランデ川の上に、現在のニューメキシコ州でのヨーロッパ人による最初の開拓地、サンフアンを創った。オニャーテは、ヌエバ・エスパーニャから遠く離れた植民地までの、距離にして700マイル(1100キロ)の「エル・カミノ・レアル」(英:The Royal Road)と名付けられた陸路を開拓した。オニャーテは、新しいヌエボ・メヒコ州(スペイン領のニューメキシコ州)の最初の総督になった。アコマ・プエブロにいるインディアンたちは、 このスペイン人の台頭に対して反抗したが、激しい抑圧に直面してしまった。アコマとの戦いで、彼らは従属を拒否し、オニャーテは11人の兵士と2人の使用人を失ったが、数百人のインディアンたちを殺して24人を処刑した。カトリックの伝道の名目で植民地にミッション(伝道所)を建設していたフランシスコ会は、相変わらずプエブロの人々に対してキリスト教改宗を強制し、反発を受けていた。 1609年、後のヌエバメヒコ州の総督となるペドロ・デ・ペラルタは、 サングレ・デ・クリスト山脈のもとにサンタフェの地を開拓した。サンタフェは、この建設時以来ずっとニューメキシコ州の州都であるため、米国で最古の州都である。1610年、ペラルタは総督邸を建てた。植民地の繁栄には失敗したが、いくつかの伝道所は残った。スペイン人開拓者たちは現在のアルバカーキ(1706年に創設された)の場所に1600年代中頃には到着した。宣教師たちはインディアンをキリスト教に改宗させようとしたが、ほとんど成功しなかった。
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