スペイン人の伝道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 16:11 UTC 版)
1600年頃、スペインのフランシスコ会修道士がアパラチー族の中に入って伝道所を造り成功したが、1704年(アン女王戦争の時)、北方のカロライナ植民地から大半がクリーク族とヤマシー族インディアンからなる部族連合が白人に追いやられ、南のフロリダにやってきて、アパラチー族とその中に住んでいたスペイン人宣教師団を攻撃した。この事件はアパラチー虐殺として知られることになった。アパラチー族は殺された者もおり、また捕らえられて奴隷に売られた者もいたが、暫くの間その部族的同一性を保った。クリーク族やヤマシー族インディアンに奴隷に取られてイギリスのインディアン奴隷貿易で売られた者もいたが、西方に逃げてフランスが支配するモービルに住むという提案を受け入れた者もいた。1763年、これらアパラチー族の大半がルイジアナ州のラピデス郡に再度移住した。その子孫達は現在でも、ギルマー・ベネット酋長の指導下でラピデス郡に住んでいる。
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