スペイン人のメキシコ征服と植民地期のソチミルコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 05:26 UTC 版)
「ソチミルコ」の記事における「スペイン人のメキシコ征服と植民地期のソチミルコ」の解説
スペイン人がアステカにやってきて征服を開始した頃、クアウテモック王はテノチティトランの防衛のためにショチミルコへ赴き救援を要請したとの言い伝えがある。その道中、クアウテモック王はアウェウェテ(ahuehuete、ラクウショウの一種メキシコラクウショウ)の木を植えたという。この木は現在もバリオ・デ・サン・フアンに立っている。エルナン・コルテスとその部隊は1521年4月16日にショチミルコを征服し、続いてチュルブスコ(Churubusco)、コヨアカン(Coyoacán)、オアステペック(Oaxtepec)、クエルナバカ(Cuernavaca)を相次いで征服した。 テノチティトランの征服が一段落すると、ショチミルコの最後の支配者であるトラトアニ(王)のアポチキヤウツィン(Apochquiyauhtzin)はキリスト教に改宗した。これが自発的なものか強要されたものかは分かっていない。彼は1522年6月6日に洗礼を受けた後、エルナン・コルテスおよびペドロ・デ・アルバラードの二人の征服者から名を取ってルイス・コルテス・セロン・デ・アルバラード(Luís Cortés Cerón de Alvarado)と改名した。彼は征服者の傀儡としてソチミルコの統治者の地位に納まったが、実際にはコルテスがアルバラードにソチミルコ地区の土地と民を征服の直後に与えていた。アルバラードは1541年の死までソチミルコの実権を握っていた。 ソチミルコとその周辺の住民に対するキリスト教改宗はフランシスコ会の宣教師が監督した。1534年から1579年にかけてフランシスコ会の僧院が建てられたが、現在ではソチミルコ大聖堂の一部となっている。スペイン王フェリペ2世はソチミルコを市に昇格させ、以後ソチミルコは正式には「高貴な都市ソチミルコ」と呼ばれていた。植民地当局はソチミルコ湖におけるチナンパ農法の繁栄を支えた土木事業に対しては関心を示さなかったため、1609年には大洪水が起こっている。1576年には天然痘の大流行(ウェイコロリストリ、hueycololiztli)が起こった。1777年にも天然痘が大流行した。この天然痘は18世紀のヌエバ・エスパーニャ植民地における人口激減の危機をもたらしている。 ソチミルコはメキシコシティとは湖を使った水運で緊密に結ばれていた。ソチミルコは、東の方の町からメキシコシティへ、トラヒネラ(trajineras, 小舟)で向かう際の中継地でもあった。16世紀半ばにはソチミルコ湖はテスココ湖などメキシコ盆地の他の湖から孤立し始めたため、ソチミルコとメキシコシティの間の水運は運河(Viga)が中心となった。
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