スペイン人の衝撃とイスラム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 05:09 UTC 版)
「ブルネイの歴史」の記事における「スペイン人の衝撃とイスラム」の解説
フィリピン社会は、バランガイという家族集団の集まったものが単位となって構成されていた。バランガイは台湾など他の地域からフィリピン諸島に移住してきた移民船を単位にした集団だと考えられている。フィリピンにはバランガイよりも上位の社会集団がなく、王や国家などは存在していなかった。特に大きなバランガイを治める首長が存在していただけである。 そこに1521年、太平洋を横断し、東からやって来たスペイン艦隊の長フェルディナンド・マゼランがヴィサヤ諸島(現在のフィリピン)に到着する。ヴィサヤ島、リマサワ島、セブ島が従ったが、マクタン島の英雄ラプ・ラプは、植民地化の尖兵マゼランを倒しスペイン人をはねのけた。 リーダーを失ったマゼラン艦隊が次に寄港したのが、ブルネイである。1521年、ブルネイ湾にマゼラン艦隊が入港。ブルネイは港市都市であるため、マゼラン艦隊とも取引を行う。艦隊側では、ブルネイの情勢を調査し、湾内に2万5000戸の水上家屋があることを確認している。ほとんどがイスラム教徒であり、王族だけは陸上に居を構えていたことも記録に残している。 このころ、ブルネイ以外のボルネオ島諸都市がイスラム化したと考えられている。 1526年、今度はマラッカから東に進むポルトガル人がブルネイに至った。ポルトガル人の目的はモルッカ諸島にあったが、マラッカからジャワ、ボルネオ間を進むとイスラム教徒の船舶が多く、わざわざ北から回り込むことを考えていた。中国大陸マカオへの中継地点としても活用した。ブルネイの運命を決めたのが、スペイン、ポルトガルとの関係である。ブルネイ王室はイスラム教徒だったマニラの首長と姻戚関係にあり、同盟も結んでいた。もちろん、貿易関係も重視していた。ところが、1564年、フェリーペ二世の命令により、スペインのフィリピン遠征隊が組織されてしまう。隊を率いていたのは、ヌエバ・エスパニャ副王領下でメキシコ市長を努めたスペイン生まれの貴族ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(1505年-1572年)であった。 レガスピ隊は4隻の帆船と380名の部下を率いて太平洋を横断。途中1隻が離脱したものの、1565年2月にはヴィサヤ諸島へ到着した。まず、2カ月を要してフィリピン中央南部のセブ島に植民地を建設し、セブ植民地を拠点に周辺の島々を侵略していく。1567年メキシコから増派を受ける。 ブルネイ船はレガスピ隊と何度も海戦を交えた。ブルネイがポルトガルと同盟を結ぶことはなかったが、スペイン側の攻撃は分散された。1568年ポルトガルはセブ港を攻め、レガスピ隊はネグロス島をはさんで北西に位置するパナイ島に逃れた。1570年、レガスピ隊は北に向かって島伝いに占領を続ける。マニラが貿易都市として有力であることを発見すると、マニラの王をだまし、マニラを落とすと、パナイ島に戻った。マニラに植民都市を建設したのはようやく1571年だったが、ブルネイ側もフィリピン海域の拠点を次々に失い、貿易から閉め出されてしまう。さらに1578年、ブルネイのヴィサヤ諸島に対する権利をすべて譲ることを認めさせる。北ボルネオの一部も失った。1580年、ヨーロッパにおいてスペインのフェリペ二世がポルトガルを併合、もはやブルネイを助ける勢力は残っていなかった。 マニラの植民地確立に忙しいスペインはそれ以上ボルネオを追撃しなかった。1582年のスペインと倭寇との戦闘ののち、ブルネイは最後の反撃に出る。1587年、マニラ周辺の首長はマニラ港を訪れていた日本船と同盟を結び、スペインに戦いを挑む。ブルネイは背後から資金を援助した。しかし、スペイン勢力を後退させることはできなかった。同年、ブルネイは寄航したポルトガル船に同乗していたスペイン人神父二人を殺害した。 スペインは、1565年に始まったメキシコ(アカプルコ)・フィリピン(セブ・マニラ)・中国を結ぶガレオン貿易を軌道に乗せると、有望な資源のないブルネイに再び興味を示すことはなかった。メキシコが産する膨大な銀の約半数は中国に渡り、中国から絹織物を購入することで、利益を獲得できたからである。資源のないフィリピンは中継点としてのみ機能した。1599年にブルネイとスペインの間に和平が成立した。 一方、1640年にスペインから独立したポルトガルもモルッカ諸島の手前、スラウェシ島南西部の港湾都市マカッサルを占拠。モルッカ・マカッサル・マラッカ・ゴア…、という東から西を結ぶ最短経路を結ぶ貿易路を確立し、北に大きく逸れたブルネイに対する興味を失って行く。 ブルネイはヨーロッパ世界からの最初の侵略を逃れることができた反面、主要な貿易相手を失い、次第に衰えて行った。
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