スペイン人来航と植民地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 08:59 UTC 版)
「ネグロス島」の記事における「スペイン人来航と植民地化」の解説
ネグロス島はもとの名は「ブグラス(Buglas)」、古い現地語で「切り取られた島」を意味していたと思われる。伝説ではネグロス島は大きな大地の一部だったが、海に切り取られてしまったのだという。中には、これを大陸移動と解釈する人もあれば、氷期の後に海面が上昇したことを表すと解釈する人もいる。ネグロス島の先住民は暗い色の肌をしたネグリト人に属する人たちで、独特の文化を持っていた。それゆえ、フィリピンを征服したスペイン人航海者ミゲル・ロペス・デ・レガスピの部下たちは1565年4月にこの島に到来したとき、会った先住民の肌が黒かったので島の名を「ネグロス」と呼んだ。初期の先住民たちの集落はビナルバガン(Binalbagan)とイログ(Ilog)で、後に1573年と1584年にそれぞれ町になった。記録に残るほかの集落はヒニガラン(Hinigaran)、バゴ(Bago)、マラヨ(Marayo、現在のポンテヴェドラ)、ママラン(Mamalan、現在のヒママイラン)、カンダグイット(Candaguit、現在のサン・エンリケの場所)などがある。 レガスピは部下13人をこの島のエンコメンデーロ(エンコミエンダ制に基づき、原住民を保護し教化しながら、その対価として労役-たいていの場合非常に過酷な労役を課すことのできる植民者)に指定し、ネグロス島を、パナイ島にあるオトンの町の長の管轄化に置いた。1734年、ネグロス島は軍が支配する地となりイログにその本拠が置かれた。軍政府は後にヒママイランへ、そして1849年にバコロドに移っている。この期間を通して教会や役人、スペイン人入植者、原住民内の支配者らは農園を拡大し、農民の多くは小作農・農園労働者化した。19世紀半ば、対岸のイロイロ市は富裕な港町で当時ビサヤの中心的都市だったが、ここのイギリス人副領事ニコラス・ルーニー(Nicholas Loney)は、世界的に需要が高まっていた砂糖産業に目をつけ、資金を貸し付け砂糖産業を振興した。イロイロの富裕層はネグロス島の大規模開発に乗り出し、一気にサトウキビ栽培が広がった。 1890年、スペイン人支配者は島をネグロス・オリエンタルとネグロス・オクシデンタルに分割した。
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