起源に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:58 UTC 版)
大部分の歴史家は、モリスがピスコサワーの開発者であると考えている。それにも関わらず、その他の可能性を示す証拠により、起源については様々な説がある。1903年のペルーの料理本Manual de Cocina a la Criollaのレシピに基づき、Nico Veraは、「ピスコサワーの起源は、リマで100年以上も前から作られていた伝統的なクリオーリョのカクテルである」と考えている。McDonnellは、1921年のWest Coast Leaderのニュース記事に基づき、ピスコサワーの起源は実際はサンフランシスコであり、さらに、「この頃はカクテルの創造が爆発的に進んでおり、ウイスキーサワーのカクテルはどこにもたくさんあり、この都市ではピスコは特別な酒として歓迎されていた」と考えている。 モリスを支持する立場では、ジャーナリストのRick Vecchioは、「例え似たようなものが以前からあったとしても、今日ピスコサワーとして知られているものを最初に提供し、普及し、完成させたのはモリスであることは疑うべきではない」と考えている。McDonnellも、その真の起源はともかく、「ピスコサワーはペルーに属する」と考えている。作家のSaxon Bairdによると、「近代ペルー文化への貢献と半生以上を過ごし彼が母国と呼ぶ国の証」として、リマのサンティアゴ・デ・スルコ地区にモリスを称えた胸像がある。 このような状況であるが、チリとペルーの間で、ピスコサワーの起源についての論争が続いている。チリでは、1980年代の都市伝説では、ピスコサワーの開発者は、帆船サンシャイン号のイギリス人司厨長Elliot Stubbであるとされた。チリの民俗学者で歴史家のオレステ・プラスは、「1872年のペルーの新聞El Comercio de Iquiqueによると、Stubbは下船休暇を取得した後、ペルーのイキケの港でバーを開き、色々実験しながらピスコサワーを開発した」と書いて、この都市伝説を広めた。しかし、Toro-Liraは、El Comercio de Iquiqueに書かれたのは実際はウイスキーサワーについて言及したものだったことが判明し、この説は否定されたと主張している。Stubbがイキケでウイスキーサワーを開発したという話は、1962年にアルゼンチンのクーヨ国立大学も発表している。 ピスコの製造者の中には、チリとペルーの間の議論は、酒への関心と地理的表示の議論にとって助けになると表明している。 アメリカ人の有名シェフであるアンソニー・ボーディンは、ディスカバリーチャンネルの『アンソニー世界を喰らう』という番組の中で、チリのバルパライソでピスコサワーを飲み、「美味しいが・・・次回はビールを頼む」と語って関心を集めた。放送局ラジオ・プログラマ・デル・ペルーは、チリ側の担当としてこの番組の放送回の制作に関わったJorge Lopez Sotomayorは、「ボーディンは、自身がバルパライソで飲んだピスコサワーがたいくつで努力に値しないものだと分かったのだろう」と述べ、「Lopezは最近ペルーを訪れ、そこで数杯のピスコサワーを飲み、チリのものよりも美味しいと思った」と付け加えた。 2010年、メキシコの歌手アレックス・シンテックは、twitterにピスコサワーはチリのものだとおどけて投稿し、批判的なコメントが集まると、謝罪し、単なるジョークであったと述べた。メキシコのテレビ司会者でコメディアンのアダル・ラモーンズは、2009年のチリ-ペルー間のスパイ騒動に絡め、同年11月17日に、「チリ人がペルーでスパイしていたものはピスコサワーの作り方だ」とジョークを言った。2017年、チリのラジオ局のインタビュアーがピスコサワーは「完全にチリのもの」だと話すと、イギリス人ミュージシャンのエド・シーランは、ペルーのピスコサワーの方を好むと述べた。
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起源に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 17:13 UTC 版)
詳細は「en:Origins of Tutsi and Hutu」を参照 フツは11世紀頃にチャドの辺りから(現在のルワンダなどの国を含む)大湖沼地域にたどり着き、ピグミー系のトゥワと入れ替わった。フツはこの地域で主流となり、ツチが来る前に数々の小さな王国を形成した。それから複数の説がある。ハム仮説系の説では15世紀にエチオピアからハム系のツチが同地域に来て18世紀までフツとトゥワを征服した、としてきた。しかしフツとツチは元々同じ民族で、植民地化を進めたドイツ人とベルギー人が彼らの支配を正当化するため、ツチを地域的な中間支配者として人工的に作り出したとも考えられる。しかしこれが歴史修正主義とみなされる場合もある。関連のある2つの民族がヨーロッパ人により分断された。ベルギー領ルアンダ=ウルンディ時代には所持するウシの頭数でツチとフツが分けられ、様々な面で差別された。ツチによる君主政は1960年代にベルギー人が同地域から引き上げるまで続いた。ベルギー人が引き上げる際にルワンダでは「民主化」としてツチによる君主制が打倒され、1962年にルワンダとブルンジがそれぞれ独立した。 マフムード・マムダーニはベルギー当局がツチとフツをウシの保有数、身体的特徴や教会記録で作り上げたと発表した。
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起源に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 08:58 UTC 版)
詳細は「en:Origins of Tutsi and Hutu」を参照 ツチは、ヨーロッパ人の到来と共にジョン・ハニング・スピークに始まるハム仮説系の説では15世紀にエチオピアから牧畜を生業とするツチが同地域に来て18世紀までフツとトゥワを征服した、としてナイル系の半ハム人種であるとされた。しかし実際にはフツとツチは元々互いに境界の明白でないバントゥー系の集団で、植民地化を進めたドイツ人とベルギー人が植民地政策のために、ツチを中間支配者として利用したと考えられている。ツチは牛飼いや戦士であり、フツは農耕民が多かった。特にベルギー当局はウシを10頭以上持つ者、鼻の高いものをツチとし支配階層に据えた。Y染色体の遺伝子解析の結果、ツチがエチオピア系の遺伝子を持つ根拠は見つからなかった。
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