テケスタ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 00:14 UTC 版)
「エバーグレーズ地域のインディアン」の記事における「テケスタ族」の解説
南フロリダでカルーサ族に次いで力と人口があったのがテケスタ族だった(テクェステ、テゲスタなどとも呼ばれた)。彼らはフロリダ半島下部の南東部、現在のマイアミ・デイド郡やブロワード郡を占有していた。カルーサ族に支配されていた可能性もあるが、カルーサ族の「カシケ」に従うのを拒否することもあり、それが戦争に繋がったという証言がある。カルーサ族と同様、エバーグレーズの中で生活することはほとんど無かったが、海岸のプレーリーや淡水沼の東にある松の岩場は住めることが分かっていた。テケスタ族領土の北はエイス族やジェイガ族の領土に接していた。カルーサ族と同様、テケスタ族の社会は河口を中心にしていた。その主要な集落はおそらく、マイアミ川あるいはリトル川に沿ってあった。リトル川沿いにある大きな貝塚は、かつて集落があった場所を示している。テケスタ族の社会の痕跡はほとんど無いが、マイアミ・サークルと呼ばれる考古学的に重要な遺跡が、1998年にマイアミ市中心街で発見された。テケスタ族の建造物の名残である可能性がある。その重要さはまだ判断できていないが、考古学者や人類学者が研究を続けている。 スペイン人はその水夫達がテケスタ族を大いに恐れていたと書いている。テケスタ族が難破船の生存者を拷問に掛けたり殺したりしたと考えていた。スペイン人僧侶は、テケスタ族が戦っていた部族と和解するときに、子供を生贄に捧げたと記している。カルーサ族と同様、テケスタ族は小動物の狩猟を行ったが、食料として植物への依存度が高く、貝類はそれほど食しなかった。濃厚栽培は行わなかった。カヌーの操作に熟練しており、フォンタネダが鯨だと言っていたものを大洋で狩ったが、おそらくそれはマナティだった。マナティを投げ網で捉え、その鼻先を引いてきた。 スペイン人との最初の接触は1513年のことだった。フアン・ポンセ・デ・レオンが「チェクシャ」あるいはビスケイン湾と呼んだ湾に立ち寄った。ポンセ・デ・レオンはテケスタ族に歓迎されないことが分かると、そこを離れてカルーサ族との接触に向かった。メネンデス・デ・アビレスは1565年にテケスタ族と出逢い、彼らと友好的な関係を続け、家屋数軒を建て、伝道所を設置した。酋長の甥をハバナに連れて行って教育を受けさせ、酋長の兄弟はスペインに連れて行った。メネンデスが訪れた後、テケスタに関する記録はほとんど残されていない。1673年に彼らに関して言及されたものがあり、さらにスペイン人が接触して改宗させたものだった。テケスタ族が存続していた間に最後に現れるのは、1743年にスペイン人僧侶のアラーニャ神父が書いたものであり、別の部族から攻撃を受け続けていると記されていた。その生存者は僅か30人になり、スペイン人がハバナに連れて行った。1770年、イギリスの測量士が、テケスタ族が住んでいた地域の多くの集落跡について記していた。考古学者のジョン・ゴッギンが、1820年にヨーロッパ系アメリカ人がこの地域に入植してきた時までに、テケスタ族の残塊はすべてセミノール族に同化されていたと示唆した。1820年にフロリダにいたインディアンに関する記述は、「セミノール族」のみと同定されるものである。
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