カルーサ族
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「エバーグレーズ地域のインディアン」の記事における「カルーサ族」の解説
1566年以降、フロリダの住人として知られているのは、ヨーロッパ人探検家や開拓者が記録したものである。フアン・ポンセ・デ・レオンは、1513年にフロリダの先住民と最初に接触したヨーロッパ人とされている。ポンセ・デ・レオンはエイス族やテケスタ族だと考えられる部族の敵対に会い、その後フロリダ半島の南端であるセイブル岬を回って、南フロリダでは最大かつ強力な部族であるカルーサ族と出逢った。カルーサ族の少なくとも1人が流暢にスペイン語を話した。そのスペイン語を話す者はイスパニョーラ島から来たと考えられたが、人類学者は、カルーサ族とキューバやフロリダキーズに土着の人々との間の対話や交易は普通にあっていたことであり、すなわち、ポンセ・デ・レオンはフロリダの先住民と接触した最初のスペイン人ではなかった。ポンセ・デ・レオンが2回目に南フロリダを訪れた時に、カルーサ族によって殺されたので、カルーサ族は暴力的であるという評判が立ち、その後の探検者は彼らを避けるようになった。カルーサ族とスペイン人が関係を持った200年以上の間で、スペイン人の改宗させようという試みに抵抗し続けることができた。 カルーサ族はスペイン人から「カルロス族」と呼ばれており、これは「カロス」に音が近く、マスコギ語で「黒い」あるいは「強力な」を意味する「カロ」の派生語だった。カルーサ族について現在知られていることの多くは、エルナンド・デ・エスカランテ・フォンタネダが与えている。フォンタネダは1545年にフロリダ海岸沖で乗っていた船が難破したときに、唯一生き残った13歳の少年だった。カルーサ族の間で17年間生活し、その後の1566年に探検家のペドロ・メネンデス・デ・アビレスがフォンタネダを見つけた。メネンデスはフォンタネダをスペインに連れて行き、そこでフォンタネダの経験を本にした。メネンデスは将来スペインが植民地を建設するのを容易にするために、カルーサ族との関係を築いておく意図があった。酋長すなわち「カシケ」はスペイン人がカルロスと名付けた。カルーサ族社会で重要な地位にある者達は、スペインの伝統にのってカルロスやフィリップと名付けられた。しかし、フォンタネダが記していた「カシケ」のカルロスはスペインの植民地時代に最も強力な酋長だった。メネンデスはスペインとカルーサ族との間の関係を構築するためにカルロスの姉妹と結婚した。このようなことは南フロリダの人々の社会ではよくあることだった。競合する町の間の紛争を解決し、合意を取り付けるために、一夫多妻が手段として用いられた。しかし、メネンデスは既に結婚しており、この結婚には不快を表明した。結婚を避けることができないままに、カルロスの姉妹をハバナに連れて行き、そこで教育を与えた。ある証言では彼女が数年して死亡し、この結婚が成立することは無かったとしている。 フォンタネダはその1571年の備忘録で、カルロスがフロリダ西海岸、オキーチョビー湖周辺(「マヤイミ」と呼んでいた)とフロリダキーズ(「マータイアズ」と呼んでいた)にある50の村落を支配していた、と説明している。オキーチョビー湖の東に住んでいたエイスやジェイガといった小さな部族が、定期的にカルロスに対して貢物を差し出していた。スペイン人は、カルーサ族が難破船から宝物を取り出し、その大半をカルロスが受け取ると共に、エイス族やジェイガ族に金や銀を配っているのではないかと疑った。カルーサ族の主要な村と、カルロスの家は現在のマウンドキーにあるエステロ湾に接しており、カルーサハッチー川がメキシコ湾に注ぐ所だった。フォンタネダは人身御供をよくある慣習として記述している。「カシケ」の子供が死んだとき、各住民が1人の子供を生贄に差出し、「カシケ」が死んだときは、その従僕が死出の道に加わるために犠牲にされた。毎年カルーサ族の偶像を宥めるために、1人のキリスト教徒が生贄に求められた。様々な大きさと形の貝塚を建設することも、カルーサ族にとては精神的な意味合いがあった。1895年、フランク・ハミルトン・クッシングがキーマルコで大きな貝塚を発掘した。それは数百ヤードの長さがあるテラス数段で構成されていた。クッシングはカルーサ族の人工物を数多く発掘した。その中には、骨や貝殻でできた道具、土器、人骨、マスク、木製の動物の彫刻があった。 カルーサ族はその先祖と同様、狩猟採集民であり、小動物、魚、亀、アリゲーター、貝類、および様々な植物で生活していた。地域にある柔らかい石灰岩をあまり使っておらず、その道具の大半を骨や歯で作っていたが、尖らせたヨシを効果的に使っていた。武器は弓と矢、アトラトル(投槍器)、槍だった。大半の集落は河口あるいはキー諸島にあった。交通のためにカヌーを用いており、カヌーの道を遮るエバーグレーズの中や周辺にある貝塚がその証拠だった。南フロリダの部族はエバーグレーズをカヌーで通ることが多かったが、滅多にその中に住むことは無かった。キューバまでカヌーで行くことも普通に行われた。 カルーサ族の集落は1つの集落に200人以上の住人が住んでいることが多く、その社会は階層構造に組織されていた。「カシケ」とは別に、僧侶や戦士の階層があった。家族の絆が階層構造に反映され、エリートの間では兄弟姉妹間の結婚も普通にあった。フォンタネダは「これらインディアンには金も無く、銀も無く、衣服も少ない。ヤシの葉を織った腰回りの衣類を除いては裸であり、男性はそれで自身を覆っている。女性は木の上に生えるある種の葉で似たようなことをしている。この葉はウールのようであるがそれとは異なるものである」と記していた。建物についてはほんの1例のみ記されていた。カルロスが1,000人以上入る部屋と窓のある大きな家でメネンデスに会見したことだった。 スペイン人の僧侶とカルーサ族はひっきりなしに争っていたので、カルロスを制御できないことが分かった。カルロスはあるスペイン兵がクロスボウで撃って殺した。「カシケ」カルロスの死に続いて、その社会の指揮権は2人の「カシケ」に渡ったが、いずれもスペイン人に捕まって殺された。スペインが占領を始めたときのカルーサ族の推定人口は、4,000人ないし7,000人だった。その社会はカルロスの死後に力と人口を失って行った。1697年までに人口は約1,000人にまで減っていたと推計できる。18世紀初期、カルーサ族は北のヤマシー族からの攻撃に晒されるようになった。多くの者はキューバへの移動を求め、そこでおよそ200人が病気で死んだ。残った部族員の幾らかは後にフロリダに移り、最後は18世紀中に発展したセミノール族に同化された可能性がある。
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