カルーサ族とは? わかりやすく解説

カルーサ族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 00:14 UTC 版)

エバーグレーズ地域のインディアン」の記事における「カルーサ族」の解説

1566年以降フロリダ住人として知られているのは、ヨーロッパ人探検家開拓者記録したのであるフアン・ポンセ・デ・レオンは、1513年フロリダ先住民最初に接触したヨーロッパ人とされている。ポンセ・デ・レオンエイス族やテケスタ族だと考えられる部族敵対会いその後フロリダ半島南端であるセイブル岬を回って、南フロリダでは最大かつ強力な部族であるカルーサ族と出逢った。カルーサ族の少なくとも1人流暢にスペイン語話した。そのスペイン語を話す者はイスパニョーラ島から来たと考えられたが、人類学者は、カルーサ族とキューバフロリダキーズ土着の人々との間の対話交易普通にあっていたことであり、すなわち、ポンセ・デ・レオンフロリダ先住民接触した最初スペイン人ではなかった。ポンセ・デ・レオン2回目に南フロリダ訪れた時に、カルーサ族によって殺されたので、カルーサ族は暴力的であるという評判が立ち、その後探検者は彼らを避けようになった。カルーサ族とスペイン人が関係を持った200年上の間で、スペイン人改宗させようという試みに抵抗し続けることができた。 カルーサ族はスペイン人から「カルロス族」と呼ばれており、これは「カロス」に音が近くマスコギ語で「黒い」あるいは「強力な」を意味するカロ」の派生語だった。カルーサ族について現在知られていることの多くは、エルナンド・デ・エスカランテ・フォンタネダが与えている。フォンタネダは1545年フロリダ海岸沖で乗っていた船が難破したときに、唯一生き残った13歳少年だった。カルーサ族の間で17年生活しその後1566年探検家のペドロ・メネンデス・デ・アビレスがフォンタネダを見つけたメネンデスはフォンタネダをスペインに連れて行き、そこでフォンタネダの経験本にした。メネンデス将来スペイン植民地建設するのを容易にするために、カルーサ族との関係を築いておく意図があった。酋長すなわち「カシケ」はスペイン人カルロス名付けた。カルーサ族社会重要な地位にある者達は、スペイン伝統にのってカルロスフィリップ名付けられた。しかし、フォンタネダが記していた「カシケ」のカルロススペインの植民地時代に最も強力な酋長だった。メネンデススペインとカルーサ族との間の関係を構築するためにカルロス姉妹結婚したこのようなことは南フロリダ人々社会ではよくあることだった。競合する町の間の紛争解決し合意取り付けるために、一夫多妻手段として用いられた。しかし、メネンデスは既に結婚しており、この結婚には不快を表明した結婚避けることができないままに、カルロス姉妹ハバナに連れて行き、そこで教育与えた。ある証言では彼女が数年して死亡し、この結婚成立することは無かったとしている。 フォンタネダはその1571年備忘録で、カルロスフロリダ西海岸オキーチョビー湖周辺(「マヤイミ」と呼んでいた)とフロリダキーズ(「マータイアズ」と呼んでいた)にある50村落支配していた、と説明している。オキーチョビー湖の東に住んでいたエイスやジェイガといった小さな部族が、定期的にカルロスに対して貢物差し出していた。スペイン人は、カルーサ族が難破船から宝物取り出し、その大半カルロス受け取と共にエイス族やジェイガ族に金や銀を配っているのではないか疑った。カルーサ族の主要なと、カルロスの家は現在のマウンドキーにあるエステロ湾に接しており、カルーサハッチー川がメキシコ湾に注ぐ所だった。フォンタネダは人身御供よくある慣習として記述している。「カシケの子供が死んだとき、各住民1人の子供を生贄差出し、「カシケ」が死んだときは、その従僕死出の道に加わるために犠牲にされた。毎年カルーサ族の偶像宥めるために、1人キリスト教徒生贄求められた。様々な大きさと形貝塚建設することも、カルーサ族にとては精神的な意味合いがあった。1895年フランク・ハミルトン・クッシングがキーマルコで大きな貝塚発掘した。それは数百ヤード長さがあるテラス数段構成されていた。クッシングはカルーサ族の人工物数多く発掘した。その中には、骨や貝殻でできた道具土器人骨マスク木製動物彫刻があった。 カルーサ族はその先祖と同様、狩猟採集民であり、小動物、亀、アリゲーター貝類、および様々な植物生活していた。地域にある柔らかい石灰岩をあまり使っておらず、その道具大半を骨や歯で作っていたが、尖らせヨシ効果的に使っていた。武器は弓と矢、アトラトル投槍器)、だった。大半集落河口あるいはキー諸島にあった交通のためにカヌー用いており、カヌーの道を遮るエバーグレーズの中や周辺にある貝塚がその証拠だった。南フロリダ部族エバーグレーズカヌーで通ることが多かったが、滅多にその中に住むことは無かったキューバまでカヌーで行くことも普通に行われた。 カルーサ族の集落1つ集落200人以上の住人住んでいることが多く、その社会階層構造組織されていた。「カシケ」とは別に僧侶戦士階層があった。家族の絆階層構造反映されエリートの間では兄弟姉妹間の結婚普通にあった。フォンタネダは「これらインディアンには金も無く、銀も無く衣服少ない。ヤシの葉織った腰回り衣類除いては裸であり、男性はそれで自身覆っている。女性は木の上生えある種似たようなことをしている。この葉ウールのようであるがそれとは異なるものである」と記していた。建物についてはほんの1例の記されていた。カルロスが1,000人以上入る部屋と窓のある大きな家でメネンデス会見したことだった。 スペイン人僧侶とカルーサ族はひっきりなしに争っていたので、カルロス制御できないこと分かったカルロスはあるスペイン兵がクロスボウ撃って殺した。「カシケカルロス死に続いて、その社会指揮権2人の「カシケ」に渡ったが、いずれもスペイン人捕まって殺された。スペイン占領始めたときのカルーサ族の推定人口は、4,000人ないし7,000人だった。その社会カルロス死後に力と人口失って行った1697年までに人口は約1,000人にまで減っていたと推計できる。18世紀初期、カルーサ族は北のヤマシー族からの攻撃晒されるようになった多くの者はキューバへの移動求め、そこでおよそ200人が病気死んだ残った部族員の幾らかは後にフロリダ移り最後18世紀中に発展したセミノール族同化された可能性がある。

※この「カルーサ族」の解説は、「エバーグレーズ地域のインディアン」の解説の一部です。
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