前半生と諸発明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 09:20 UTC 版)
「ハリー・グリンデル・マシューズ」の記事における「前半生と諸発明」の解説
1880年3月17日に、ハリー・グリンデル・マシューズは、グロスタシャー、ウィンターボーン(Winterbourne)に生まれた。彼は、ブリストルのマーチャント・ヴェンチャーズ・スクール(Merchant Venturer's School)で勉強し、電子技師(electronic engineer)になった。第二次ボーア戦争のあいだ、彼は、南アフリカ警察隊(South African Constabulary)に勤務し、そして2回、負傷した。 1911年に、マシューズは、エアローフォーン装置(Aerophone device)、無線電話(radiotelephone)を発明したと言い、そしてメッセージを地上局と2マイル離れた航空機とのあいだで交信した。彼の実験は、政府の注意を引き、そして1912年7月4日に彼は、バッキンガム宮殿を訪れた。しかしながら、英国海軍がエアローフォーンの実演を依頼したとき、マシューズは、専門家がその場に立ち会わないことを要求した。実演が始まるまえに観測者のうち4人が装置の一部を分解し、ノートをとったとき、マシューズは、実演を取り消し、観測者らを追い払った。 新聞諸紙は大急ぎで、マシューズを弁護した。陸軍省は、不正工作を否定し、そして実演は失敗であると主張した。政府はのちに、事件は、たんなる誤解であったと述べた。 1914年に、第一次世界大戦の勃発ののち、英国政府は、ツェッペリン飛行船あるいは遠隔操作の無人の乗り物に対する兵器をつくった者への25000ポンドの賞金を発表した。マシューズは、自分は、セレン光電セル(selenium cells)を使用した遠隔操作システムを創作したと主張した。彼はリッチモンド公園のペン・ポンド(Penn Pond)で、海軍の代表者に対して、遠隔操作のボートでそれを実演して成功した。彼は、25000ポンドを受け取ったが、しかし海軍は、その発明をけっして使用しなかった つぎに、マシューズは1921年に公の場に現われ、そして世界最初のトーキー映画を発明したと主張したが、それは1921年10月16日に記録された、アーネスト・シャクルトンの最後の探検の直前のさよならインタヴューであった。映画は、商業的に成功しなかった。他のトーキー映画のプロセスはマシューズの前に発達していたが、そのプロセスのなかにはウィリアム・K・L・ディクソン、フォトキネマ(Photokinema)(オーランド・ケラム(Orlando Kellum))、そしてフォノフィルム(Phonofilm)(リー・ディフォレスト(Lee DeForest))によるものもふくまれる。しかしながら、マシューズは、自分のプロセスは最初のサウンド-オン-フィルム(sound-on-film) プロセスであると主張した。たとえマシューズのプロセスが実際に動いたとしても、じつはそれは最初ではなかった。
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