前半生と福島交通への経営参加
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「小針暦二」の記事における「前半生と福島交通への経営参加」の解説
福島県西白河郡矢吹町出身。旧制安積中学を中退。戦時中は背が低いため兵隊には行かなかった。精米業を経て炭坑経営などを手掛ける。1953年に大阪に出て不動産会社の美福を創業。日本貿易振興会の駒村資正との親交から河野一郎と通じる様になり、その配下だった中曽根康弘とも繋がりが出来る。1964年から翌65年にかけての栃木県那須高原の国有地払い下げでは、駒村が社長を務めていた江商のエージェントとして働き、その際河野への政治工作が行われたとして国会で追及された。 1968年に、経営陣の内紛や相次ぐ労働争議で混乱していた福島交通の経営に前社長の織田大蔵を追い出し後任として関与。中曽根運輸相や中曽根派の代議士で地元選出の天野光晴の助力もあって、旧経営陣を追って社長に就任した。その後、福島交通・福島民報・ラジオ福島を中核3社とするグループ10数社のオーナーとなり、那須高原などでゴルフ場やホテルの建設など観光開発を手掛け不動産事業を展開、グループを拡大した。 小針は日本債券信用銀行のドンとして君臨した勝田龍夫と密接に結びつき、日債銀と政界を結びつけるパイプ役となり、20年間にわたり日債銀から巨額資金を引き出した。また勝田の後任として頭取に就任した頴川史郎も小針と懇意で、勝田頭取時代から一貫して福島交通を担当。頴川は福島交通向け融資を表面上は同社や小針とは無関係なエフ・アール・イーという会社に移し、帳簿上から福島交通への日債銀の融資が消えるように細工した。これが、その後日債銀がことあるごとに使うことになる不良債権飛ばしの原型となった。 1971年に福島交通と子会社の福島交通不動産は、白河開発計画と呼ばれるニュータウンづくりに着手。福島県白河市の土地1000haの買収に取り掛かる。だが、途中、オイルショックに見舞われ、計画は中断したがこの間、日債銀から400億円もの資金がつぎ込まれた。その後も追加融資が続き、1984年当時、福島交通と福島交通不動産への融資額は685億円に達した。この融資は国会でも「過剰融資ではないか」と追及された。この時期は佐藤栄作政権の末期であり、後釜を福田赳夫と田中角栄が激しく争い、票集めのため実弾が飛び交い、「角福戦争」と呼ばれていた。この実弾を用意したのは田中陣営が小佐野賢治で福田陣営は小針であった。このため、福島交通グループが日債銀から受けた融資は、総裁選の資金づくりが目的だった(自民党関係者)が定説となっている。 金丸信とは遠縁にあたりその縁で政財界とのパイプを構築した。金丸は小針を「小さな政商みたいな人」と称した。竹下登、安倍晋太郎をはじめ中央政界の大物政治家と幅広い交際があり、「昭和の政商」といわれた小佐野賢治になぞらえ「東北の小佐野」と呼ばれた。
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