前半生・キーストン社時代
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「ヘンリー・レアマン」の記事における「前半生・キーストン社時代」の解説
ヘンリー・レアマンは1886年3月30日、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれる。19歳のときにアメリカに移民として渡り、路面電車の車掌をしていたが、映画監督D・W・グリフィスと面会の上で1909年にバイオグラフ社(英語版)から俳優としてデビューする。グリフィスと面会した際、レアマンは「自分はヨーロッパからやってきた者で、パテで映画監督をしていた」と売り込む。もちろんこれは真っ赤な嘘で即座にグリフィスに嘘を見破られたものの、グリフィスは逆にレアマンを気に入って嘘に由来する「パテ」との愛称を与え、マック・セネットのもとに送り込んだ。バイオグラフ社で1910年に喜劇部門の主任となったセネットは2年後の1912年夏にメーベル・ノーマンドやフレッド・メイスらを引き連れてキーストン社を設立し、ロサンゼルス近郊イーデンデール(英語版)にスタジオを建設して自前の映画作りを始めることとなった。レアマンもついて行き、間もなく「キーストン・コップス」が繰り広げる追いかけっこを主軸としたスラップスティック・コメディ映画が当たったことでセネットだけでは撮影ユニットが足りなくなり、1913年に入ってレアマンを主任とする第2撮影ユニットが作られることとなった。 第2撮影ユニットが作られたのと同じ1913年、キーストン社は肥満で人気を博していたメイスが退社したため、その穴を早急に埋めるべくフレッド・カーノー(英語版)劇団の一員でアメリカを巡業中のチャップリンをスカウトしてキーストン社に迎え入れた。チャップリンはレアマンのユニットに加えられて映画デビュー作『成功争ひ』から仕事を共にしたが、思いつくギャグをあらん限りに注ぎ込む新人チャップリンをレアマンは認めず、周囲に「(チャップリンは)頭がおかしい」という意味のことを言いふらした上に注ぎ込んだギャグを切り刻み、チャップリンを愕然させた。『成功争ひ』以降もしばらくの間レアマンと組むこととなったチャップリンは納得がいかず意見を試みるも、そのたびにレアマンは笑ってチャップリンに次のようなことを言った。「それね、舞台でなら面白いかもしれんが、映画じゃ、とてもそんな暇なんてないよ。こっちは絶えず動いてなくちゃいかん」。チャップリンはこのようなレアマンの姿勢に「メチャクチャ倫理のくりかえし」と疑念を抱くようになった。レアマンとチャップリンの軋轢はセネットの知るところとなり、『夕立』の製作後にコンビは解消された。その後、チャップリンは契約更新時のこじれからキーストン社を去ることとなって、週1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたエッサネイ社に移籍することとなった。これと相前後して、レアマンもまたキーストン社を去って独立することとなった。
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