前半生:王の支持者として
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「ヤン・ザモイスキ」の記事における「前半生:王の支持者として」の解説
ヤン・ザモイスキは1542年3月19日に、スタニスワフ・ザモイスキ(ポーランド語版)[要リンク修正]とアンナ・ヘルブルトとの間にスコクフカで生まれた。13歳より国外留学し、イタリアのパドヴァ大学では法律を専攻し、法学博士号を取得。さらに、パドヴァではカルヴァン派プロテスタントからローマ・カトリックに改宗した。1565年に共和国へ戻った。 彼は学生時代から政治に深い関心があった。パドヴァ時代の1563年には「古代ローマの元老院について」( De senatu Romano )という小冊子を著している。その中で彼は共和政ローマの立憲主義的原則をポーランド・リトアニア共和国に応用することを求めている。1565年にポーランドに戻ると、彼はジグムント2世アウグスト王の秘書官となった。1567年には、有力貴族のスタジェホフスキ家が所有している土地は一部不法占有であるという判決に基づき、判決を不服として武力で抵抗しているスタジェホフスキ家に対して、当該地の没収執行のための特別タスクフォースを指揮している。 1572年にヤギェウォ朝が断絶し、国王選挙が行われることになったが、全シュラフタ(共和国貴族)の選挙権と多数決の原則を守るために彼は自身の政治的影響力を行使した。このとき彼は「選挙制度」( Modus electionis )という小冊子を自ら著し国内に配布している。彼はミコワイ・シェニツキ(英語版)とヒェロニム・オッソリンスキ(英語版)と友人関係にあったため、共和国における中小貴族(中小シュラフタ)の党派の重要な指導者の一人となった。この党派が求めていたのは共和国の制度改革であり、「履行運動」という社会運動を指導、黄金の自由の原則を中小シュラフタの主導する立憲政治および議会政治の形で守ることを目的とした。そのためザモイスキは「中小シュラフタの筆頭護民官」と呼ばれた。 1573年の国王選挙で、全てのシュラフタ(共和国貴族)が選挙権を持つという「権限委任の原則」を支持した。共和国に野望を抱くハプスブルク家の影響を未然に防止しようとする彼は、第一回投票ではヘンリク・ヴァレジに投票した。一方、中小シュラフタから成る彼の党派に対抗していたマグナート(大シュラフタたち)の党派は、ハプスブルク家の分家の人物を推していた。そのとき当選したヴァレジがのちにポーランドの宮廷からフランスへ逃亡したため急遽行われることになった1575年の国王選挙では、ハンガリー人[要曖昧さ回避]のステファン・バートリを支持した。バートリもまたハプスブルク家に対抗していた人物である。バートリはハプスブルク家だけでなくオスマン帝国の影響力にも抗しており、ザモイスキはバートリの政治スタンスを支持、共に中央集権の強化を目指した。共和国のマグナートの一部が首謀して1576年に引き起こし翌年まで続いたグダンスクの反乱の鎮圧に際しては、バートリ王を強固に支持し、その立場はぶれることはなかった。1578年には36歳の若さで王冠領大法官(ポーランド王国首相)に任命され、1579年から1581年に行われた対モスクワ大公国戦争の準備において自ら保有していた400人の私兵を国家に提供した。ザモイスキは兵法にも深い造詣があり、常に最新の軍事技術に精通していた。彼はバートリ王の援助を得て、当時の王冠領大ヘトマン(王国大元帥)ミコワイ・ミェレツキ(ポーランド語版)の権限を一部移譲され、ミェレツキが遠方にいて不在のときはこれらの執行を任された。対モスクワ戦争(英語版)では1580年にヴェリジ市を攻略、続いてヴェリーキエ・ルーキ要塞(ロシア語版)を包囲陥落させ、さらにザヴォロツ要塞(ポーランド語版)を獲得した。1581年8月11日、ザモイスキは王冠領大ヘトマン(王国大元帥)に任命された。大ヘトマン職は前任の大ヘトマンが没したのちに任命されるのが原則であるが、ミェレツキは存命中で、ザモイスキの昇進は非常に例外的なケースとなった。
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