最後の接触とは? わかりやすく解説

最後の接触

作者堀晃

収載図書地球環
出版社角川春樹事務所
刊行年月2000.10
シリーズ名ハルキ文庫

収載図書ロボット・オペラ
出版社光文社
刊行年月2004.6


最後の接触

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)

フランクとモンゴルの同盟」の記事における「最後の接触」の解説

14世紀イルハン朝1330年代滅亡するまで、西欧モンゴルの間の外交折衝続いたが、ヨーロッパで黒死病恐れられペストの蔓延起こり東方との接触途切れる原因となったビザンチン帝国皇帝アンドロニコス2世パレオロゴストクタ (1312年死去)との結婚で娘を与えたように、キリスト教国の支配者ジョチ・ウルスモンゴル族との間で2、3婚姻同盟存続しトクタ後継者であるウズベク・ハン (在位1312年-1341年) 以降引き継がれた。 アブー・サイードの後、キリスト教国の君主イルハン朝の関係は、非常に希薄になった。アブー・サイード後継者相続人もないまま1335年亡くなりイルハン朝彼のをもって滅亡した滅亡後は、モンゴル人トルコ人ペルシア人によって小国群雄割拠する状態となった。 1336年アヴィニョン捕囚教皇ベネディクトゥス12世への使節が、元の大都から、元の最後の皇帝トゴン・テムルによって送られた。使節モンゴル皇帝計らいにより2人ジェノヴァ人によって案内された。使節は、モンゴル大都大司教ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノの死以来8年間、精神的な導きのないままであり、心から導き求めていることを記した書簡運んだ教皇ベネディクトゥス12世は、4人の聖職者を元の宮廷へ使節任命した1338年総勢50名もの聖職者教皇から大都送られ、その中の1人ジョヴァンニ・デ・マリニョーリ1353年元の皇帝から教皇インノケンティウス6世への書簡携えてアヴィニョン帰還した。しかしその後すぐ、漢民族蜂起し紅巾の乱発生してモンゴル人中国から追い払い1368年明王朝成立した1369年までに、すべての外国影響は、モンゴル人からキリスト教徒マニ教徒と仏教徒まで、明王朝によって追放された。 15世紀前半には、ティムールは、エジプトマムルーク朝オスマン帝国対抗する同盟構築しようとしてフランスシャルル6世カスティーリャ王国エンリケ3世 (ただし1405年死去) との関係強化従事した (ティムール朝ヨーロッパの関係(英語版)) 。

※この「最後の接触」の解説は、「フランクとモンゴルの同盟」の解説の一部です。
「最後の接触」を含む「フランクとモンゴルの同盟」の記事については、「フランクとモンゴルの同盟」の概要を参照ください。

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