最後の接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)
「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「最後の接触」の解説
14世紀、イルハン朝が1330年代に滅亡するまで、西欧とモンゴルの間の外交折衝は続いたが、ヨーロッパで黒死病と恐れられたペストの蔓延が起こり、東方との接触が途切れる原因となった。ビザンチン帝国の皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスがトクタ (1312年死去)との結婚で娘を与えたように、キリスト教国の支配者とジョチ・ウルスのモンゴル族との間で2、3の婚姻同盟は存続し、トクタの後継者であるウズベク・ハン (在位1312年-1341年) 以降も引き継がれた。 アブー・サイードの後、キリスト教国の君主とイルハン朝の関係は、非常に希薄になった。アブー・サイードは後継者も相続人もないまま1335年に亡くなり、イルハン朝は彼の死をもって滅亡した。滅亡後は、モンゴル人、トルコ人、ペルシア人によって小国が群雄割拠する状態となった。 1336年、アヴィニョン捕囚の教皇ベネディクトゥス12世への使節が、元の大都から、元の最後の皇帝トゴン・テムルによって送られた。使節はモンゴル皇帝の計らいにより2人のジェノヴァ人によって案内された。使節は、モンゴルが大都の大司教ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノの死以来8年間、精神的な導きのないままであり、心から導きを求めていることを記した書簡を運んだ。教皇ベネディクトゥス12世は、4人の聖職者を元の宮廷への使節に任命した。1338年、総勢50名もの聖職者が教皇から大都へ送られ、その中の1人のジョヴァンニ・デ・マリニョーリは1353年に元の皇帝から教皇インノケンティウス6世への書簡を携えてアヴィニョンに帰還した。しかしその後すぐ、漢民族が蜂起し、紅巾の乱が発生してモンゴル人を中国から追い払い、1368年に明王朝が成立した。1369年までに、すべての外国の影響は、モンゴル人からキリスト教徒、マニ教徒と仏教徒まで、明王朝によって追放された。 15世紀前半には、ティムールは、エジプトのマムルーク朝とオスマン帝国に対抗する同盟を構築しようとして、フランスのシャルル6世とカスティーリャ王国のエンリケ3世 (ただし1405年に死去) との関係強化に従事した (ティムール朝とヨーロッパの関係(英語版)) 。
※この「最後の接触」の解説は、「フランクとモンゴルの同盟」の解説の一部です。
「最後の接触」を含む「フランクとモンゴルの同盟」の記事については、「フランクとモンゴルの同盟」の概要を参照ください。
- 最後の接触のページへのリンク