末井昭との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 08:14 UTC 版)
1988年、当時パチンコ必勝ガイド編集長だった末井昭が田山と初対面する。第一印象は「なんか胡散臭い人」。 末井の口の上手さに乗せられ原稿を書いているうちに、「パチプロ日記」は連載となり、書籍化する運びとなった。1990年3月から5月に書籍化のため、毎日の日記を書いたが、この原稿を末井に手渡した瞬間に「で、次回の日記ですけど…」と言われ田山はその末井の計算高さや図々しさに唖然としたという。「この末井という男の、全てを既定路線かのように伝えてくる器量というか、神経の図太さは俺とは次元が違う」と評している。 しかし田山は末井を嫌っていたわけではなく、原稿引き渡しの時は一緒に飲みに行き、麻雀を楽しむ仲で末井も病気療養中も誰よりも田山を支えてサポートした。療養後には登山や温泉旅行、北陸旅行などへ田山を誘っていた。 その末井が田山と最後に接触した業界関係者となった。2001年2月21日に用賀で、玉川病院へ検査へ向かう田山を末井が発見。病院にて田山を励ましたが、田山は口を開かず、鞄から取り出したメモ用紙に「いつ死ぬか」と書き残した。末井はその言葉に絶句し、その場で別れた。それが最後の接触となった。
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