コントラ戦争の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 05:58 UTC 版)
「イラン・コントラ事件」、「fa:ماجرای مکفارلین」、「he:פרשת איראן-קונטראס」、および「es:Irán-Contra」も参照 1980年、エル・サルバドルではサンディニスタ革命の影響を受けてファラブンド・マルティ民族解放戦線と政府軍の内戦が始まろうとしていたが、レーガンは「エル・サルバドル死守」を掲げてサンディニスタ政権を打倒し、アメリカにとっての都合の良い親米的な政権を再び樹立するために、アメリカ中央情報局(CIA)を使ってソモサ政権の残存勢力、サンディニスタ政権に不満を持つ勢力に対して資金と武器を供給して、反革命傭兵軍コントラを結成した。 エデン・パストラ率いるFSLNの一部は組織内部の対立によりコントラに合流し、コントラはサンディニスタ政権の打倒を目ざして革命政権に対して武力闘争を仕掛けた。コントラは主にニカラグアの隣国のホンジュラスを中心にして組織され、そこにコスタリカからのエデン・パストラの部隊(民主革命軍 ARDE)と、ニカラグアの大西洋側のモスキート海岸の先住民ミスキート族(MISURASATA)が加わって、三派に分かれて出撃した。こうしてアメリカは1989年の内戦終結まで主にホンジュラスのコントラを支援し、操作した。こうした勢力の訓練には国内で汚い戦争の経験を積んでいたアルゼンチン陸軍や、さらにはイスラエル国防軍も携わっていたとされている。 FSLN内での路線対立や、新聞社ラ・プレンサ紙のビオレータ・チャモロが政権から降り、最初に国家指導をした五人の内ブルジョワの三人は消えて、残った二人は本来は軍事部門であったはずのFSLNだけになった。また、内戦が進むにつれて言論弾圧や、祖国防衛のための徴兵制なども敷かれ、次第にニカラグア国民の間にFSLNに裏切られたという思いが蔓延してきた。 その一方でアメリカは海空軍を使ってニカラグアに対して直接的な武力攻撃も繰り返した。米軍は1983年9月から1984年4月の間にプエルト・サンディーノ、コリント(英語版)、サン・フアン・デル・スル、サン・フアン・デル・ノルテ、ポトシ(英語版)にあったニカラグアの主要港や海軍基地を空襲した。 1983年10月10日、太平洋岸のコリント港に米軍が機雷を敷設し、燃料320万ガロンが失われた。この作戦はCIAに指揮されたネイビーシールズによって行われたとされている。 1983年7月、メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラの大統領はパナマのコンタドーラで大統領会議を開催し、ニカラグア内戦、グアテマラ内戦、エルサルバドル内戦の終結を協議した。このコンタドーラ・グループは協議の結論として、超大国の直接的・間接的な介入・干渉を排除し、ラテンアメリカの問題は基本・原則としてはラテンアメリカ自身の努力で解決し、超大国・大国・域外国からの支援は補助的・限定的にすること、戦闘の終結、民兵勢力の武装解除、自国領土内への外国軍隊の受け入れ禁止、政府と民兵集団の対話と和解を提案したが、ニカラグア内戦、グアテマラ内戦、エルサルバドル内戦の終結には至らなかった。 1984年11月に国連監視下で行った大統領選挙でダニエル・オルテガが大統領に当選した。野党はこの選挙をボイコットし、実質的に国民の半数の支持を得ることは出来なかったとはいえ(オルテガの得票率41%)、この選挙によりサンディニスタの民主的な正当性が確保されたことになる。しかし、この後も米国はコントラを援助して内戦を続けさせたのである。 1985年にコントラの一部だった大西洋側の先住民ミスキート族の部隊ミスラサタとの停戦がなされた。これは前年にサンディニスタがミスキート族が自治を行う権利を憲法で認めたからである。 1985年4月、メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ペルーの大統領はコロンビアのカルタヘナで大統領会議を開催し、中米諸国の内戦の終結を提案したが、それでもニカラグア内戦の終結には至らなかった。当時は冷戦末期だったが、冷戦の終結前であり、米国とソ連は冷戦時代最終局面の勢力争いを繰り返し、米国はコントラを支援し、ソ連はサンディニスタを支援した。アンゴラなどの他の多くの開発途上国の内戦と同様に、ニカラグア内戦もニカラグア国民だけの戦争ではなく、大国によって中小規模の国家がその勢力争いの場となるという、米ソの代理戦争という側面も含んでいた。 1986年2月、国際司法裁判所はアメリカがコントラに武器・資金を支援して、サンディニスタ政権に対する武力攻撃を行わせていること及び、アメリカ軍がニカラグアを空襲したことに対して、他国の国家主権に対する侵害、他国の内政に対する強制的な干渉、他国に対する侵略的武力行使は国際連合憲章違反であると認定し、前記の侵略・介入・干渉行為の即時停止と120億ドルの賠償金の支払いを命じたが、米国政府は判決の受け入れを拒否した(ニカラグア事件参照)。1986年11月、国連総会は米国に対して、(拘束力は無いが)国際司法裁判所の判決を受け入れるように求める決議を賛成94、反対3、棄権47で採択した。決議に反対票を投じたのはアメリカ、イスラエル、エル・サルバドル(極右政権による支配)の3ヶ国だけである。
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