スペイン継承戦争の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:18 UTC 版)
「ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の記事における「スペイン継承戦争の推移」の解説
1704年に入ると同盟国は大きな危機を迎えることになり、重要な同盟国であるオーストリアが危機的な状況に見舞われていた。この年、ウィーンでは東からはオーストリアからの独立を求めるラーコーツィ・フェレンツ2世がハンガリーで独立戦争を起こし、西からはかねてから神聖ローマ皇帝位を欲していたバイエルン選帝侯マクシミリアン2世がフランス軍の将軍タラール伯及びマルサンと連合して西からウィーンへと進軍していた。 危機的状況に際し神聖ローマ皇帝レオポルト1世は駐ロンドン・オーストリア全権大使のヴラティスラフ伯爵に対しイギリスへの援軍派遣要請を指示し、アン女王に対してヴラティスラフが嘆願文を書いている。 「女王陛下におかれましては幾度か口頭により、大量のフランス軍がバイエルンへと進行したことと、ハンガリーで同時期に発生いたしました反乱による我が帝国の窮状をお伝えいたしましたが、我が帝国はこれによりかつてない不安と混乱の中にあります。女王陛下と陛下の大臣諸卿におかれましては、マールバラ公爵閣下への格別な計らいが可及的速やかに行われ、ハーグに到着される閣下にご命令が遅滞なく届けられ、すでに始まっている戦期をこれ以上遅らせないようにしていただきたく思います。閣下は貴国を発たれる以前から書状において戦術を思い描いておられており、我が帝国と皇帝陛下をこの受難から救おうと思案されております。女王陛下におかれましてはヨーロッパの自由のために陛下の御力をもって同盟諸国への援助拡大と閣下をして速やかに帝国を支援するために政府委員諸卿と協議をされるか、必要最低限な兵力を派兵していただきたく思う所存であります。帝国を崩壊から救うため、わたくし自身信じたくはございませんが、現在ネーデルランド国境付近に駐留している貴国の軍を広大な河川と大地によって守られている低地諸国にではなく、フランスの砲火と剣に脅かされた我が帝国へと派遣していただきたいのであります。また、先に我が帝国と貴国およびネーデルランドの3カ国で結ばれた条約を省みると、我が帝国を救う事は他の同盟諸国の利益にもなることであるので、陛下におかれましてはバイエルンにおける我が帝国軍を支援するために援軍を派遣されることを切に所望するものであります」 イギリス政府とマールバラ公自身は援軍の派遣の必要性を十分に認識していたため問題にはならなかったが、ここで問題なのはオランダの反応だった。まず大きな問題として、仮にマールバラが連邦議会に1704年の作戦案を提示したとすれば政府の反応は必ず硬化するであることは目に見えていた。なぜなら連邦の資金と軍隊を祖国を守るためでなく、遥か遠方のオーストリアを救援に使う事は矛盾しており、且つ、未だフランドル戦線においてはヴィルロワ公率いるフランス軍が国境付近に駐屯しており、遠征に部隊を割いたために本国がフランス軍の猛攻に見舞われる恐れが大きいからだ。 事実、1704年2月にハーグにおいてマールバラは連邦議会と兵の構成、配置に関して未だに決定案が作れずにいた。オランダ側に対してマールバラは作戦案を数回に亘り変更を加え、モーゼル川流域での作戦承認(実際はドナウ川遠征)を求めていたが、一時の安全を求める先見性のなさと、優柔不断性によりゼーラント州とフリースラント州が反対していたため初動作戦が遅れていたのである。これに対してマールバラはゴドルフィンに対してこう述べている。 「この作戦において彼ら(連邦議会)が取ろうとしている手段は、私に言わせれば大きな過ちであると思います。彼らはモーゼル川流域へ15000人の兵を派遣し、残りはフランドル戦線へ残そうとしているようですが、そのような思慮に欠いた作戦は敵に対してただただ進攻の機会を与えるだけにすぎないのです。私は確信を持って言えますが、もし彼らの考えを変えることができなければ、この作戦での勝利はほとんど確信が持てないものとなるでありましょう」 5月、マールバラとフランス軍はライン川沿いで追いかけっこを演じ続けたが、フランス軍はドナウヴェルトに近づくまでマールバラの真意に全く気付かなかった。これはマールバラが意図を悟られることを避けるために行軍の途中でルールモント、コブレンツ、フィリップスブルクで牽制のための行軍計画を立てていたからである。フランス国内に侵入する素振りを敢えて見せることで、マールバラの本来の意図を隠していた。こうした行軍がスムーズに且つ迅速に行われたのはドイツ諸侯の支援があったからで、マインツ選帝侯とトリーア選帝侯はボートと荷車を準備してイングランド軍を待っていてくれた上に、イングランド軍がコブレンツでマイン川を渡河する際に2本の船橋を建設していた。また、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムはヴラティスラフの要請でマイン川とネッカー川を渡河する時とフィリップスブルク近郊でライン川を渡る時に橋の架橋工事を行なった。 フランス軍がマールバラとのライン川での追いかけっこを終えて直接対峙したのは、行軍もほぼ目的を達したドナウ川沿いの町、ドナウヴェルト近郊にあるシェレンベルク要塞においてであった。要塞を守るアルコ伯爵は同盟軍の急襲に対して応戦をしたが、側面からの奇襲攻撃と正面からの激しい攻撃に同日中に降伏した(シェレンベルクの戦い)。シェレンベルク要塞の降伏以降、マールバラはフランスとの同盟からバイエルン選帝侯を単独講和に持ち込むため、バイエルン王国内の戦略的略奪行為を行ったが、バイエルン選帝侯が叛意しないことを確認すると再度略奪した後にドナウヴェルトへ引き上げた。8月にライン川でフランス軍を牽制していたプリンツ・オイゲンが同盟軍に合流、オイゲンと対峙していたタラールもアウクスブルクにいたマルサン及びバイエルン選帝侯と合流した。 タラール、マルサン両元帥と選帝侯率いるフランス軍と同盟軍が衝突したのは南ドイツ、ウルムの東約50kmあるブレナム村とヘヒシュタット村の間であった。フランス軍はマールバラの攻撃を予期していなかったらしく、戦いの起きる8月13日の朝も実に優雅で呑気な朝食を取っていた。フランス陸軍少将メロード・ヴェストゥルー伯爵の8月13日の朝は実に驚きの連続であったであろう。 「私の命令により、従者はベッドを納屋に準備し、私はそこで一夜を過ごしたのだが、彼は農家で寝ていた。次の日(8月13日)の朝は6時頃までぐっすり寝ていたのだが、従者の中で一番偉く、私の最も古い一人の召使が息も絶え絶えやってきて、私を急に起こしたのだった。彼が言うには、朝の4時頃に馬にまぐさを与えるために外に出て、戻ってきてから私を起こしに来たらしいのだが、この男レフランスは私を揺すって起こし、すぐそこに敵がいると言うのである。彼にバカにされたと思った私が彼に、『〔半ば馬鹿にしながら〕じゃあその君が言う敵というのは一体全体何処にいると言うのかね?』と尋ねると、彼はすぐに『はい!!あちらに、あちらに!!』と言って納屋の戸外を指してベッドのカーテンを開けた。ドアが開くとそこには明るい日差しを浴びた平野が広がっており、そしてなんと!一緒に敵の騎兵大隊までもが日差しを浴びて広がっているではないか!!私は信じられなかったので目をこすり、そして敵を冷静に観察した。(戦闘が始まるまでの)時間があることに気づいたので、朝のチョコレートを一杯飲んだ」 フランス軍5万6000とイギリス・オーストリア連合軍5万2000の間で行われたブレンハイムの戦いはマールバラとオイゲンの連携によりフランス軍を撃破、イギリス・オーストリアの勝利に終わった。タラールは捕虜となりマルサンはライン川方面へ、バイエルン選帝侯はネーデルラントへ逃亡、マールバラは戦後オイゲンらと共にモーゼル川流域を平定した後にイングランドへ帰国した。この戦いでフランス軍は南ドイツ方面の戦線を大幅に後退させることになり、スペイン継承戦争の形勢を反フランス同盟側に大きく傾かせる転換点となった。 バイエルン制圧後、イギリス軍は再びライン川に沿ってネーデルランドに戻った。マールバラはオイゲンと協力して反フランス同盟による大攻勢を準備したが、同盟の足並みの乱れとフランス軍の反抗によってうまくいかなかった。それでも1706年には、ナミュール近郊で行われたラミイの戦いでマールバラの軍はフランス軍を殲滅し、ブリュッセル、アントウェルペン、ヘント、ブルッヘなどスペイン領ネーデルランドの主要都市はみなイギリス軍の勢力下に置かれた。 1708年、フランスがフランドルに軍を送って再び反攻を開始すると、オランダやドイツの諸領邦国家は戦争を渋り始め、イギリス国内でもトーリー党を中心に和平の声が高まりつつあった。マールバラは自身の栄光を実現するために戦争を最後まで遂行することを望み、妻サラも友人である女王に夫の意思を伝えたが、平和を望む女王はサラに対する信頼を失い、ゴドルフィンも戦争継続と1707年のスコットランドとイングランドの合同によるグレートブリテン王国成立のため、議会多数派のホイッグ党と組んだことが女王の不満を招いていった。このような政治的な逆境にあっても、マールバラはオイゲンと協力してフランドルのフランス軍に対抗し、7月11日にアウデナールデの戦いでフランス軍を破った。フランドルのフランス軍主力はこの敗戦によって後退し、12月9日に連合軍はフランス領フランドルの都市リールを攻略した(リール包囲戦)。窮地に追い込まれたフランスは同盟国との和睦を考えるようになっていった。 翌1709年、フランスと同盟国の和睦が開始されたが、会議は決裂したため再戦、マルプラケの戦いでヴィラール率いるフランス軍とマールバラ・オイゲンら反フランス同盟軍は再び激突し、この戦いは連合軍の勝利に終わったものの、連合軍も死傷者数万の大損害を受けた。
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