要塞の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 06:38 UTC 版)
「シュトラールズント攻囲戦 (1715年)」の記事における「要塞の降伏」の解説
カール12世が町を去った後、攻囲軍は最初の突破口を要塞の主壁に開いた。司令官のデューカー大将は、国王から要塞を明け渡す許可を得ていた。1715年12月22日には、そのための交渉が終わる。6,000名を擁する要塞の守備隊は捕虜となった。交渉の結果に従い、士官117名を含むスウェーデン出身の軍人1,000名は故国への帰還を許可される。残りの軍人は勝利した各国の軍に編入された。要塞の弾薬、大砲や補給物資も攻囲軍が接収した。 それらの戦利品は、各国が分け合った。最も多くを受け取ったのはプロイセン軍である。それに比べれば、デンマーク軍とザクセン軍が受け取った戦利品は少なかった。ザクセン軍は大砲6門、軍旗36本、戦旗2本、いくつかの太鼓、火器333個その他の装備を受け取ることになった。捕虜の内、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は騎兵6個連隊と著しく損耗した歩兵10個連隊、総勢1,250名を得た。その中には将官2名、佐官22名、大尉85名と下級将校142名が含まれていた。兵の内、ザクセン軍の諸連隊に採用されたのは500名に留まり、残りの者は高齢を理由に釈放されている。
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