要塞とイギリス軍のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 15:20 UTC 版)
「タイコンデロガの戦い (1759年)」の記事における「要塞とイギリス軍のその後」の解説
翌日には、イギリス軍が要塞の占領を始めた。フランス軍が、カリヨンからあわただしく撤退したため、偵察隊が、要塞はまだフランスのものと思い込んで戻って来てしまい、40人がイギリス軍の捕虜となった。 フランス軍は退却の際、7月31日にフォート・サン・フレデリックを壊した。これによってイギリス軍は、シャンプラン湖での軍事行動ができるようになった。カリヨンとサン・フレデリックの両要塞の存在が、シャンプラン湖へのイギリスの進軍の妨げとなっていたのだ。 しかしながら、フランスも小規模の戦闘艦隊を置いており、本来は、これがまず爆破されてしかるべきだった。2つの要塞を占領して修復すること、また、シャンプラン湖で用いる船を作ること、この2つに時間を割かれ、アマースト軍は、9月のエイブラハム平原の戦いで、ウルフ軍に合流できなくなってしまった。 また、アマーストは、ブールラマクの退却は何かの策略ではないかと懸念を抱き、8月と9月は、小艦隊の編成と、フォート・セント・フレデリックの後に出来たフォート・クラウン・ポイントの建設とそれぞれの監督をし、この地へのニューイングランドからの道を整備して過ごした。 10月11日、アマーストの軍はシャンプラン湖から北へこぎ出し、リシュリュー川の「イルオーノワ」(Île-aux-Noix)の、ブールラマクの陣地を攻撃して、その後2日間で、フランスの船を1隻拿捕した。フランスは、拿捕を防ぐために、他の船を焼き、または放棄した。10月18日、アマーストはケベックの陥落を知った。そのころには冬が近づいていて、湖の一部は氷結し始めていた。11月1日に、民兵の兵籍期間は終わった。アマーストは攻撃を中止し、民兵を解任し、軍を冬季の宿舎に戻した。 2009年の6月26日と27日、フレンチ・インディアン戦争の大規模な再演がタイコンデロガ砦で行われた。
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