シュターデへの攻撃、カールスブルクの攻囲とスウェーデン軍の出撃
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「ブレーメン=フェルデン戦役」の記事における「シュターデへの攻撃、カールスブルクの攻囲とスウェーデン軍の出撃」の解説
11月4日、連合軍はスウェーデンのブレーメン=フェルデン公領における地方政庁が置かれていたシュターデに進軍した。スウェーデンの同公領における総督、ヘンリク・ホルン(英語版)元帥率いるシュターデ守備隊は5,624名と民兵600名から構成されていた。 脅威に直面したホルンは、町の防衛に向けて徹底的な準備に心を砕いていた。連合軍が到着した時、ドイツ人傭兵が脱走しないように元帥は現物と宣伝の両面から対策を講じる。スウェーデンは帝国の敵と宣告されていた上、皇帝レオポルト1世が神聖ローマ帝国の臣民に向けてスウェーデンのための勤務を放棄する勅令(Mandata Avocatoria)を宣下するよう決心したため、ドイツ人傭兵はスウェーデン軍での隊務を放棄し、次々に脱走していた。それゆえ11月初頭、ホルンは威嚇のためにブクステフーデの元司令官、ハメルトンを開城が尚早であったとして咎め、シュターデで公開処刑したのである。シュターデのドイツ人傭兵は全員、スウェーデン国王に対する忠誠を公衆の面前で改めて宣誓しなくてはならなかった。このような強権的な方法でホルン元帥は、ひとまず配下の守備隊の規律を正し、積極的な防戦を強いることができたのである。 1675年11月6日から7日にかけて繰り返されたシュターデ要塞への攻撃は成功せず、連合軍は冬の到来と頑強な抗戦のため、町の攻囲を巡って合意に至ることができなかった。結局、連合軍は11月9日に部隊を冬営に撤収させる。そしてシュターデの封鎖を維持するべく、それまでに占領していた要塞に兵を配した。ブランデンブルク軍もクレーフェ公領やミンデン侯領(ドイツ語版)を目指して戦場を去る。 各要塞守備隊の消極性によって、スウェーデンは一時的に主導権を奪還することができた。シュターデから繰り返し、襲撃や食糧徴発に出たのである。その際、個々の中隊は略奪や放火を行いながらエルベ川上流ではブクステフーデ、クランツ(英語版)やアルトナまで、下流ではビーレンベルク(現在のコルマール(ドイツ語版)の一地区)やコルマールまで出撃した。その時にはエルベ川でデンマークやネーデルラントの様々な船が破壊、もしくは拿捕されたのである。 1月初頭、スウェーデン軍はズューダウ大佐指揮下の竜騎兵約400名と、歩兵400名をもってラムスドルフ中佐に率いられ砦に籠ったミュンスター軍、約500名を攻めるべくフライブルクへ出撃した。スウェーデン軍の正面攻撃が失敗した後、ズューダウ大佐は配下の竜騎兵に陣地を迂回し、デンマーク軍の陣営の後方から攻めるよう命令を下す。それに従って竜騎兵が村に入り、攻撃配置に就いた後、スウェーデン軍は砦に全方向から攻め寄せた。ミュンスター軍は大きな損害を被り、陣地を放棄すると逃亡する。スウェーデン騎兵の追撃を受け、ミュンスター兵260名が捕虜となった。その一方、スウェーデン軍がこのフライブルク・アン・デア・エルベの戦いで失った兵は50名に留まる。捕虜の中には、かつてスウェーデンに雇われ、ブレーマーフェルデが陥落した時に転仕した15名の傭兵がいた。彼らは格好の見せしめとして槍玉に挙がった。脱走兵の内、1名は威嚇のためシュターデで四つ裂きにされ、5名は絞首刑に処され、9名には烙印が押されたのである。 スウェーデン軍の成功期は、10月末から攻囲されていたカールスブルクの陥落とともに終わった。1月22日、弾薬、食糧と兵力の不足がフランス人の司令官、ジャン・メル大佐によるミュンスター、デンマーク、リューネブルク各国の攻囲軍に対する要塞の降伏に繋がったのである。なお380名(その内200名は戦闘不能)が残っていたスウェーデンの守備隊には、自由な退去が認められた。要塞の引き渡しにあたって、大砲80門が連合軍の手に落ちた。協定に従い、ミュンスターとリューネブルクの占領軍が入城している。
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