「肥前」時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:36 UTC 版)
「レトヴィザン (戦艦)」の記事における「「肥前」時代」の解説
1905年(明治38年)1月1日、旅順要塞の降伏にともない、日本海軍に捕獲された。5月25日、日本海軍は本艦の浮揚作業を開始する。9月22日、浮揚成功。9月24日、日本海軍に編入され「肥前」と命名される。佐世保鎮守府籍。なお、明治天皇に奏聞した候補艦名に「土佐」があった。 10月25日、鹵獲艦2隻(肥前《旧レトヴィザン》、周防《旧ポピエダ》)は一等戦艦に類別された。11月19日、3隻(肥前、鎮遠、子日)は旅順港を出発する。11月27日、佐世保に到着し、肥前は修理に着手した。 12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定した。戦艦の等級廃止にともない、日本海軍保有の9隻(富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防)が『戦艦』に類別される。本艦は戦艦「肥前」となった。1908年(明治41年)11月、佐世保工廠における修理が完了した。 なお、レトヴィザンが日本陸軍の28cm榴弾砲の曲射砲撃を受け、旅順港内に着底した際に受けた破口は応急処置により埋められたものの、内地に回航してから船体の本格修理を行う際に数々の改良が加えられた。鹵獲ロシア戦艦(石見、肥前、丹後、周防、相模、壱岐、見島)の中で、アメリカ製造の本艦は性能もよく、機関部の電化等技術的にも参考になる点が多かったという。ただし肥前修理中の1906年(明治39年)12月、イギリス海軍のドレッドノート(弩級戦艦)が竣工したため、本艦は二線級戦力となっている。 外観上の特徴としては前後のミリタリー・マストを簡素な単脚式のマストへと改造し、吸排気2重構造の3本煙突をイギリス式の簡素な物へと3本とも交換されるなど軽量化された。主砲は、砲架のみロシア時代のものを使用し、砲身は安式(アームストロング)12インチ砲に換装されたという。副砲はロシア艦時代のままとして、艦上構造物の簡素化に伴い兵装の多くをイギリス式に換装された。7.5cm速射砲は「アームストロング 7.6cm(40口径)砲」14基、4.7cm機砲は山内式4.7cm速射砲4基へと更新され、搭載数の減少に伴って開口部は閉鎖された。魚雷兵装も38.1cm水上魚雷発射管は全撤去され、水中魚雷発射管は38.1cmから45.7cmへと大口径化されて単装2門を装備した。
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