「肥後の田尻氏」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:47 UTC 版)
肥後の田尻氏にして、肥後《金峰山上》に住する内田、牛島と共に山の上三名字の一、其先は原田党、大蔵姓、後漢《帝》の後裔なりと云ふ、旧飽田郡《活》亀荘《岳》たけ村に住す。田尻は大蔵姓なる以て、漢高祖・阿智王の祠を、岳村に建立し、産土神と為す、岳麓寺を草創して菩提寺と為す。 菊地一族と連携し南朝方として戦う。 永徳元年(1381)菊池氏の隈部城が陥落、菊池武朝は征西将軍懐良親王を護って金峰山山中に入った。 現在の熊本市河内町、旧芳野村に嶽(岳)という集落があるが、ここに「岳の御所」があったと伝えられる。阿蘇家文書・中山右隆文書に「たけの御所奉行人」を勤めたとある。 肥後国誌には「征西将軍、山ノ西、松尾、平山ノ方ヨリ、始テ金峰山ニ登臨ノ道ヲ開キ給フ所ヲ将軍越ト云」と記す。 田尻五世にして子無し、應永十年(1403年)豊後国緒方《惟基》これもとの子定綱を養って、「《嗣》シ、ヨツギと為す」、此れより実家の姓を冒して大神とも称す(家紋「三本杉」) 田尻善左衛門(駿河守)ー惟家(上野介) 善左衛門(駿河守)、天文一九年(1550年)八月、菊地義武・隈本城を遁れて駿河守が家に匿る。嶽(岳)村にて大友勢と戦ふ、大友は大軍を引率し、大将は南の広野に陣を張り、其の軍勢は、嶽(岳)村に攻め寄せ三名字と激戦し、牛島三郎左衛門尉俊政《討死》うちじにす。然れども遂に大友勢を撃退したり。山の上にも三名字の一族上妻新右衛門※(建《久》きゅう頃より山の上野出村に代々住す)、下田五郎兵衛《金峯山》の麓平山村に、「数代住すを初め21人戦死す」)。此の戦の敵首を埋めたる所を今尚首塚と云ひ、敵の大将の陣取りたる所を大将陣と云ふ(肥後国誌)。菊地義武、河内浦より島原に落ちる。 其後、元亀天正以来、城親賢熊本在城の時城に属す。城親賢授くるに、城の称号を以てす。のち三名字も佐佐成政に従ひ、所領二百五十町を給せらる。 由来、山上三名字の所領は飽田郡大多尾村、東門寺、出羽村、嶽(岳)村、河内村、野出村、平山村、面木村の金峰山中の八箇村にして玉名郡《小天》おあま村を合せ九箇村を、三家これを領せり。九ケ村の地は三名字居屋敷分として菊池氏以来佐々の時に至るまで検地せざるを以て清正時代に至り、肥後国衆一揆、肥後52国衆(国人)の一として天正15年(1587年)では佐々成政側につき手柄を立てるが、加藤清正入国の折、国衆廃絶政策の為、三家共浪人となる。
※この「「肥後の田尻氏」」の解説は、「田尻氏」の解説の一部です。
「「肥後の田尻氏」」を含む「田尻氏」の記事については、「田尻氏」の概要を参照ください。
- 「肥後の田尻氏」のページへのリンク