「肉親にあてた手紙」
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『ノッポとチビ』は大野新編集による同人詩誌で、大野が『鬼』の同人でもあったことから石原と親交があった。大野は「石原吉郎論」を書こうと考えており、1965年に石原から大学ノート2冊を借り受けた。このノートは1959年から1961年にかけての石原の心情をつづったものである。 しかし、借り受けたものの、書かれていた内容に愕然とした大野は「石原吉郎論」を書くことを放棄せざるを得なくなった。2年間の逡巡の後、内容の重要性を悟った大野は、このノートを公開するよう電話で石原に頼み込んで『ノッポとチビ』への掲載の承諾を得た。石原自身によると、大野に強引に頼まれてやむなく掲載を承諾したのだという。 『ノッポとチビ』33号には、固有名詞まで含めて一字一句、ノートに書かれていたものと同じまま掲載された。 特に、この中に含まれていた弟宛ての絶縁状は詩壇を越えて大きな波紋を広げた。例えば、鶴見俊輔は『思想の科学事典』(1969年、勁草書房) や『家の神』(1972年、淡交社) などの文章でたびたび石原のノートをとりあげ、日本人の精神構造や「家」意識の分析に用いた。石原自身は、後年の対談 (鶴見とのではないが) の中で、鶴見が自分のエッセイばかりを取り上げる、と語っており、詩を考察の対象にしなかったことにはいくぶん不満だったようである。 なお、この時の大学ノートは大野から返却されたが、後に石原が紛失してしまい現存しない。また、後に石原が「肉親にあてた手紙」と改題して『石原吉郎詩集』(1969年)に再録した際、文章の1部を削り、土肥を伊豆に、固有名詞をイニシャルに変えるなどの変更を行っている。 また、このノートの掲載は石原の家庭にも影響を与えた。掲載を事前に知らされていなかった石原の妻は、実名で親族の名前を掲載したことで大野に対して激怒し、以前から精神的に不安定だったものが更に悪化し、以後入退院を繰り返すようになった。 このノートの公表から約1年後、石原は次々とシベリア抑留の実態を描いた散文を発表することになる。石原の友人の言によると、石原はシベリア抑留にまつわるエッセイを「異常な情熱」で書いたという。石原は文章を歩きながら考える人だったが、エッセイを書くために1日30キロメートル以上も歩いた。そのせいで、足の裏にまめができ、それがつぶれ血だらけになっていた様子が、石原の友人に目撃されている。 一方、この作業は石原の精神にも大きな負担をかけることにもつながった。執筆中に何度も精神的不安に襲われ、飲酒量が増加する原因になったという。最終的にはアルコール依存症に陥り、治療が必要なほど悪化した。 1969年、石原はエッセイ「確認されない死のなかで」「ある〈共生〉の経験から」(共に『日常への強制』所収) を発表する。この年から、シベリア抑留について語った散文を本格的に書くようになった。石原は、この頃になってシベリア抑留に関するエッセイを書くようになった理由を、帰国してからの混乱した状況では自分を表現できる文学的手段は詩の形式しかなく、散文を書けるようになるまで15年もかかった、と述べている。
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