「肉体への愛」と「魂への愛」の比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 18:33 UTC 版)
「饗宴 (クセノポン)」の記事における「「肉体への愛」と「魂への愛」の比較」の解説
ソクラテスは、ヘルモゲネスの指摘を認めつつ、「カリアスをより一層喜ばせるために、「魂への愛」が「肉体への愛」よりはるかに優れていることを証明したい」と、話を続ける。 ソクラテスは、 「魂への愛」は自発的で献身的なものだが、「肉体への愛」は相手の性質を(余分なものとして)とがめ嫌う 「肉体への愛」は老化や飽きによって衰えるが、「魂への愛」はそのようなことがない ことを指摘しつつ、さらに、「そうした「魂への愛」を持った年長愛者(エラステース)は、愛童(パイディカ)からも愛し返されるし、「肉体への愛」に基づく関係の場合にはそうはならない」ということを、 年長愛者(エラステース)から自分が「立派な善い者」と思われてることや、彼が自身の美徳に対して真剣であること、若さの盛りを過ぎて病気になったり醜くなっても彼の愛情が変わらないこと等を知った愛童(パイディカ)は、年長愛者(エラステース)を嫌いになりようがないし、愛し返さずにはいられない。 さらに、そうして共に愛し合っている者同士は必然的に、互いを見ては喜び、好意的に話し合い、信頼し合い、思いやり、共に喜び、共に苦しみ、健康な時は一緒に嬉しく過ごし、病気の時はより絶え間なく一緒にいようとし、共にいない時は共にいる時よりも一層気にかけるようになる。 しかし、肉体にのみ執着している年長愛者(エラステース)は、自分だけの欲望を追求し、愛童(パイディカ)には最大の恥辱を与え、その身内の者たちから彼を遠ざけようとし、説得によって相手の魂を堕落させるので、愛童(パイディカ)には嫌われるし愛し返されることがない。 また、売春行為に及ぶ少年は、当然のことながら相手に対して、市場の商人が買い手に対して持つ程度の思いしか持つことはない。 といった具合に指摘する。 さらにソクラテスは、 「魂への愛」に基づく関係からは、ひどいことは何一つ生じないが、「肉体への愛」に基づく関係では、数多くの不敬虔なことがなされている。 「魂への愛」に基づき、しかるべき言動を教育する者は、ケイローンやポイニクスがアキレウスに尊敬されたように尊敬されるが、「肉体への愛」に基づき、常にキスや愛撫を求めてばかりいる者は、物乞いのように扱われる。 「肉体への愛」に基づく者は、「農地の賃借人」のように可能な限りそこから収穫することばかりを考えるが、「魂への愛」に基づく者は、「農地の所有者」のように可能な限りの献身をしてその土地をより多くの価値があるものにしようとする。 愛童(パイディカ)の側も、肉体を差し出せさえすれば年長愛者(エラステース)を支配できると分かっている者は、他のことでも軽率に振る舞うが、自分が「立派な善い者」でなければ年長愛者(エラステース)の愛情を保てないと理解している者は、自身の徳に気を配る。(したがって、愛童(パイディカ)を善くしたい年長愛者(エラステース)は、自らも徳を修めて善くあらねばならないし、自分自身が劣悪なことをしていれば、愛童(パイディカ)もまたそれに似た者になってしまう。) といった話を付け加える。
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