「職能」武士の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:02 UTC 版)
武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された下級貴族(地下人)・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、清和源氏や桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身の下級貴族が、武士団の上位にある武家の棟梁となった。 しかし近年は、むしろ起源となるのは清和源氏や桓武平氏のような貴族層、下級官人層の側であるとする見解が提唱されている。彼らが平安後期の荘園公領制成立期から、荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったと見る説である。つまり武士団としての組織化は、下から上へでなく、上から下へとなされていったとする。そうした武士の起源となった、軍事を専業とする貴族を、軍事貴族(武家貴族)と呼ぶ。 平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。当初、受領達は東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を騎馬襲撃戦を得意とする私兵として鎮圧に当たらせた。しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。 それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、受領になりうる諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。おりしも、宇多天皇と醍醐天皇が菅原道真や藤原時平らを登用して行った国政改革により、全国的な騒乱状況が生じていた。彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜形太刀を身につけ長弓を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。 藤原秀郷・平高望・源経基らがこの第一世代の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層(田堵負名)と同様に大規模な公田請作を国衙と契約することで武人としての経済基盤を与えられた。しかし、勲功への処遇の不満や、国衙側が彼らの新興の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが武人としての自負から地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、藤原純友や平高望の孫の平将門らによる反乱、承平天慶の乱であった。 この時点では、まだ、武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営者ではなかった。しかし、11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領間で武力紛争が頻発するようになると、荘園および公領である郡・郷・保の徴税、警察、裁判責任者としての荘園の荘官(荘司)や公領の郡司・郷司・保司に軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである。
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