「職人の時代」とは? わかりやすく解説

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「職人の時代」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/10 07:21 UTC 版)

ミマール・スィナン」の記事における「「職人の時代」」の解説

壮麗者」スレイマン1世権力絶頂にあったのは1550年までである。彼は早世した息子のために大モスク建てた今こそ、自らの名前を冠したモスクの建設をするべきときのように感じた金角湾を見下ろすなだらかな傾斜の丘の上建ち、他のどんなものよりも偉大な記念碑となるジャーミイを。資金問題はなかった。スルタン長年わたってヨーロッパペルシア相手遠征繰り広げた結果手に入れた戦利品領土があるためである。スレイマンスィナンジャーミイ建造勅命発したスルタン希望ジャーミイ大規模なキュッリエ(英語版)が付属するもので、ジャーミイ中心に4つマドラサ1つのイマレット、病院難民収容所ハンマームキャラヴァンサライ、そして旅人宿泊所タブハーネ(普通は遊行デルヴィーシュを泊めるためのもの。3日間は無料泊まれる。)が取り囲むものであった。いまや大量アシスタント抱え大きな役所の長になっていたスィナンは、この手ごわい案件7年歳月をかけて取り組み完成させた。こうして完成したスレイマニエ・ジャーミイは、屋根部分構造立方体半分切った形状をしている。この半立方体の屋根形状既存モスクにはなかったものであり、スィナンはこれのアイデアアヤソフィアから得たと見られるスィナンルネサンス建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ思想知っていたに違いないそれというのもアルベルティもまた理想教会こだわり建築における幾何学的な完全性通して調和表現したからである。なお、アルベルティ建築理論ローマ時代建築家ウィトルウィウス著作建築について』に学んでいる。しかしながら東地中海世界西側建築家対照的なところは、スィナンが豊富化よりも簡素化により強い興味示していることである。彼は単一中央ドームの下に、できる限り大きな容積確保されるようにした。ドーム真円基本成り立っている。真円幾何学的に完全な図形であって、神の完全性抽象的に表現するスィナン建物形状比率微妙な幾何学的関係保たれるようにしていたが、スレイマニエ・ジャーミイの場合それぞれの関係が2の倍数になることを基調にした設計行った後年ではソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ(英語版)(イスタンブルの港地区)などで見られるように、ドーム形状横幅制作する際、3分割や2対3比率もよく使うようになったスィナンがスレイマニエの建設かかりきりになっている間にも、スィナン弟子たち設計図描き現場出向いて職人指示をして、多く建物建てていった。そうした建造物についてもスィナンの名前がクレジットされており、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャの名前を冠したモスクや、スレイマニエと同じ地区属す1551年建てられ霊廟などもスィナンの作と伝えられる次代大宰相リュステム・パシャスィナン多く依頼行った1550年前後スィナン彼の依頼により、イスタンブルガラタ地区エディルネエルズルム大きな旅籠(ハーネ)を建てたイスタンブル八角形マドラサもリュステムの依頼よる。 1553年から1555年の間にスィナンイスタンブルベシクタシュ地区建てたスィナン・パシャ・ジャーミイ(英語版)は、大提督スィナン・パシャ(英語版)に奉献するモスクであるが、エディルネのウチュ・シェレフェリ・ジャーミイ(英語版)を小さくたような構造をしている。このことからわかるのは、スィナンが他の建築家作品徹底的に研究していたということである。とりわけスィナンは、自分維持管理責任負っていた建造物研究していた。彼は昔の構造模倣し建築上の弱点について思索めぐらしたその上で解決策編み出し、その弱点克服しようとした。その好例が、1554年イスタンブル建てたカラ・アフメト・パシャ・ジャーミイ(英語版)である。このモスクは、次代大宰相カラ・アフメト・パシャ奉献したものであり、スィナン・パシャ・ジャーミイで模倣した構成がふたたび採用されているが、六角形平面プラン有している。この特徴的な平面プラン初め試みたものであり、これにより4つの副ドーム半ドーム縮小し45度角度をつけて各々のコーナー設置することが可能になった。この設計はのちに、ソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ(英語版)やウスキュダルのアティック・ヴァリデ・ジャーミイ(英語版)にも用いられた。 1556年スィナンハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム英語版)を建設した。これはアヤソフィア寺院近接したところに古くからあるゼウクシッポスの公共浴場英語版)を一度取り壊してから再建したものであってスィナンが手がけたハンマームの中で最も美しいものの一つであろう1559年今度は、アヤソフィア前庭下手にチャフェル・アーガー・メドレセを建てた同年ボスポラス海峡沿いの町エジプト総督イスケンデル・パシャ(英語版)のモスク建てたが、これはスィナン役所年中請け負っていた、細かなルーチンワーク一つにすぎない1561年リュステム・パシャ亡くなる。寡婦となったミフリマーフ・スルタンの監修の下、スィナン同年からかの大宰相追慕するモスク英語版)の建設始めた今回中央部形状採用されたのは八角形である。四隅半ドーム配したこの形状は、ハギオン・セルギオス・カイ・バッコス聖堂倣ったのである同年スィナンはシェフザーデ・ジャーミイ(英語版)の庭に、イズニク産する最良タイル用いて装飾したリュステム・パシャ墓廟建てた夫の遺産受け継いだミフリマーフ・スルタンはもともと自分持っていた資産併せる膨大な富を持つようになり、いまや彼女自身モスク望んだ。そこでスィナンイスタンブル七つの丘の最も高い丘の上にあるエディルネ門(英語版)のある場所に姫のジャーミイ建てた。このミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (エディルネ門)(英語版)は隆起した高台の上聳え立ち、景観アクセント与えている。建造1562年から1565年にかけて行われた雄大さ表現並々ならぬ関心注いだスィナン想像力は、このモスク大きく開いたアーチ構造支持構造として新しやり方用い縦方向空間配置して窓として使える領域増やした中央ドームは高さ37メートル直径20メートル穹隅により方形基礎の上支えられる基礎の上には3つのキューポラそれぞれ有する2列の側廊設けられた。方形基礎四隅にはそれぞれ巨大な聳え立ち、多数の窓が開いたアーチ状の面に連結する。このアーチには15個の大きな窓と4つ円窓設けられており、溢れんばかりの外光堂内もたらす。この革命的建築においてはオスマン建築許される範囲内で最もゴシック建築に近づいた。 1560年から1566年の間にスィナンは、イスタンブルのアイヴァンサライを越えたの上にザール・マフムード・パシャ・ジャーミイ(英語版)を建設したスィナン確かに設計考え建築監督はしたが、建物重要でないところは力量に劣る職人たちの手任せた。なぜなら、スィナンとその最も優秀な部下たちは、今や彼の畢生の大作エディルネのセリミーエ・ジャーミイの仕事取り掛かろうとしていたからである。高く聳えるザール・マフムード・パシャ・ジャーミイの東側外壁には、4層になる窓が穿たれており、この特徴モスク一種宮殿集合住宅のようにも見せていた。内側には3列の広い側廊があり、これがあることで内装こぢんまり見せている。また、この構造重みがあることで、ドーム予期できぬほどに高くなっているように見せることに成功している。この側廊はセリミーエ・ジャーミイの側廊予行演習であった

※この「「職人の時代」」の解説は、「ミマール・スィナン」の解説の一部です。
「「職人の時代」」を含む「ミマール・スィナン」の記事については、「ミマール・スィナン」の概要を参照ください。

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