「職人の時代」
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「ミマール・スィナン」の記事における「「職人の時代」」の解説
「壮麗者」スレイマン1世が権力の絶頂にあったのは1550年までである。彼は早世した息子のために大モスクを建てた今こそ、自らの名前を冠した大モスクの建設をするべきときのように感じた。金角湾を見下ろすなだらかな傾斜の丘の上に建ち、他のどんなものよりも偉大な記念碑となるジャーミイを。資金に問題はなかった。スルタンが長年にわたってヨーロッパやペルシアを相手に遠征を繰り広げた結果手に入れた戦利品や領土があるためである。スレイマンはスィナンにジャーミイを建造の勅命を発した。スルタンの希望はジャーミイに大規模なキュッリエ(英語版)が付属するもので、ジャーミイを中心に4つのマドラサ、1つのイマレット、病院、難民収容所、ハンマーム、キャラヴァンサライ、そして旅人の宿泊所タブハーネ(普通は遊行デルヴィーシュを泊めるためのもの。3日間は無料で泊まれる。)が取り囲むものであった。いまや大量のアシスタントを抱える大きな役所の長になっていたスィナンは、この手ごわい案件に7年の歳月をかけて取り組み、完成させた。こうして完成したスレイマニエ・ジャーミイは、屋根部分の構造が立方体を半分に切った形状をしている。この半立方体の屋根形状は既存のモスクにはなかったものであり、スィナンはこれのアイデアをアヤソフィアから得たと見られる。スィナンはルネサンスの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティの思想を知っていたに違いない。それというのもアルベルティもまた理想の教会にこだわり、建築における幾何学的な完全性を通して調和を表現したからである。なお、アルベルティは建築理論をローマ時代の建築家ウィトルウィウスの著作『建築について』に学んでいる。しかしながら、東地中海世界の西側の建築家と対照的なところは、スィナンが豊富化よりも簡素化により強い興味を示していることである。彼は単一の中央ドームの下に、できる限り大きな容積が確保されるようにした。ドームは真円を基本に成り立っている。真円は幾何学的に完全な図形であって、神の完全性を抽象的に表現する。スィナンは建物の形状や比率に微妙な幾何学的関係が保たれるようにしていたが、スレイマニエ・ジャーミイの場合はそれぞれの関係が2の倍数になることを基調にした設計を行った。後年ではソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ(英語版)(イスタンブルの港地区)などで見られるように、ドームの形状や横幅を制作する際、3分割や2対3の比率もよく使うようになった。 スィナンがスレイマニエの建設にかかりきりになっている間にも、スィナンの弟子たちが設計図を描き、現場に出向いて職人に指示をして、多くの建物を建てていった。そうした建造物についてもスィナンの名前がクレジットされており、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャの名前を冠したモスクや、スレイマニエと同じ地区に属する1551年に建てられた霊廟などもスィナンの作と伝えられる。 次代の大宰相リュステム・パシャもスィナンに多くの依頼を行った。1550年前後にスィナンは彼の依頼により、イスタンブルのガラタ地区やエディルネ、エルズルムに大きな旅籠(ハーネ)を建てた。イスタンブルの八角形のマドラサもリュステムの依頼による。 1553年から1555年の間にスィナンがイスタンブルのベシクタシュ地区に建てたスィナン・パシャ・ジャーミイ(英語版)は、大提督スィナン・パシャ(英語版)に奉献するモスクであるが、エディルネのウチュ・シェレフェリ・ジャーミイ(英語版)を小さくしたような構造をしている。このことからわかるのは、スィナンが他の建築家の作品を徹底的に研究していたということである。とりわけ、スィナンは、自分が維持管理の責任を負っていた建造物を研究していた。彼は昔の構造を模倣し、建築上の弱点について思索をめぐらした。その上で解決策を編み出し、その弱点を克服しようとした。その好例が、1554年にイスタンブルに建てたカラ・アフメト・パシャ・ジャーミイ(英語版)である。このモスクは、次代の大宰相カラ・アフメト・パシャに奉献したものであり、スィナン・パシャ・ジャーミイで模倣した構成がふたたび採用されているが、六角形の平面プランを有している。この特徴的な平面プランは初めて試みたものであり、これにより4つの副ドームを半ドームに縮小し、45度の角度をつけて各々のコーナーに設置することが可能になった。この設計はのちに、ソコッル・メフメト・パシャ・ジャーミイ(英語版)やウスキュダルのアティック・ヴァリデ・ジャーミイ(英語版)にも用いられた。 1556年にスィナンはハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム(英語版)を建設した。これはアヤソフィア寺院に近接したところに古くからあるゼウクシッポスの公共浴場(英語版)を一度取り壊してから再建したものであって、スィナンが手がけたハンマームの中で最も美しいものの一つであろう。1559年に今度は、アヤソフィアの前庭の下手にチャフェル・アーガー・メドレセを建てた。同年、ボスポラス海峡沿いの町にエジプト総督イスケンデル・パシャ(英語版)のモスクも建てたが、これはスィナンの役所が年中請け負っていた、細かなルーチンワークの一つにすぎない。 1561年にリュステム・パシャが亡くなる。寡婦となったミフリマーフ・スルタンの監修の下、スィナンは同年からかの大宰相を追慕するモスク(英語版)の建設を始めた。今回、中央部の形状に採用されたのは八角形である。四隅に半ドームを配したこの形状は、ハギオン・セルギオス・カイ・バッコス聖堂に倣ったものである。同年にスィナンはシェフザーデ・ジャーミイ(英語版)の庭に、イズニクで産する最良のタイルを用いて装飾したリュステム・パシャの墓廟を建てた。 夫の遺産を受け継いだミフリマーフ・スルタンはもともと自分が持っていた資産も併せると膨大な富を持つようになり、いまや彼女自身のモスクを望んだ。そこでスィナンはイスタンブルの七つの丘の最も高い丘の上にあるエディルネ門(英語版)のある場所に姫のジャーミイを建てた。このミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (エディルネ門)(英語版)は隆起した高台の上に聳え立ち、景観にアクセントを与えている。建造は1562年から1565年にかけて行われた。雄大さの表現に並々ならぬ関心を注いだスィナンの想像力は、このモスクで大きく花開いた。アーチ構造の支持構造として新しいやり方を用い、縦方向に空間を配置して窓として使える領域を増やした。中央ドームは高さ37メートル、直径20メートル。穹隅により方形の基礎の上に支えられる。基礎の上には3つのキューポラをそれぞれ有する2列の側廊も設けられた。方形の基礎の四隅にはそれぞれ巨大な柱が聳え立ち、多数の窓が開いたアーチ状の面に連結する。このアーチには15個の大きな窓と4つの円窓が設けられており、溢れんばかりの外光を堂内にもたらす。この革命的建築においてはオスマン建築が許される範囲内で最もゴシック建築に近づいた。 1560年から1566年の間にスィナンは、イスタンブルのアイヴァンサライを越えた丘の上にザール・マフムード・パシャ・ジャーミイ(英語版)を建設した。スィナンは確かに設計を考え建築を監督はしたが、建物の重要でないところは力量に劣る職人たちの手に任せた。なぜなら、スィナンとその最も優秀な部下たちは、今や彼の畢生の大作、エディルネのセリミーエ・ジャーミイの仕事に取り掛かろうとしていたからである。高く聳えるザール・マフムード・パシャ・ジャーミイの東側の外壁には、4層になる窓が穿たれており、この特徴がモスクを一種の宮殿か集合住宅のようにも見せていた。内側には3列の広い側廊があり、これがあることで内装をこぢんまりと見せている。また、この構造の重みがあることで、ドームが予期できぬほどに高くなっているように見せることに成功している。この側廊はセリミーエ・ジャーミイの側廊の予行演習であった。
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