スペイン継承戦争/アン女王戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)
「第2次百年戦争」の記事における「スペイン継承戦争/アン女王戦争」の解説
ライスワイクの和約ののち、イギリスはしばらく平穏な状態になったが、1700年にスペイン王カルロス2世が子のいないまま死去したことで、イギリスは深刻な状況に陥った。ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ5世として16歳でスペイン王位につくことになったからである。フランス・スペインの両大国が合同することは、両国艦隊によりイングランド艦隊が圧倒され、両国植民地によってイングランド植民地が包囲されて西欧の勢力均衡がくずれ。それまでイングランドに対し開かれていたスペイン領アメリカ植民地が閉鎖的になることを意味していた。 1701年、スペイン継承戦争がはじまり、ウィリアム3世はルイ14世の攻勢をおさえるため、オランダ・オーストリアとの三国同盟を組織した。1702年、ウィリアム3世が没してアン女王が即位すると、イングランドの支配層はこれを機にスコットランド併合を進める政策を推進した。スコットランド国民の多くは反発し、イングランド国内からも反対論があったにもかかわらず、この政策が推し進められたのは、イングランドがフランスとスコットランドとの同盟によって両者に挟撃されることを怖れたためであった。戦争のさなかの1707年、イングランド議会とスコットランド議会が合同してグレートブリテン王国が成立した。 この戦争にはルイ14世も苦しみ、かれによって何度も和平提案がなされたが、ホイッグ党はその都度これを拒否した。トーリー政権の成立によってようやくユトレヒトの和議が成り、スペインとフランスが合同しないことを条件にフェリペ5世のスペイン王位継承が承認されてブルボン朝スペイン王国が成立した。スペインはジブラルタルとメノルカ島をイギリスに、ミラノ公国・ナポリ王国・サルデーニャ・南ネーデルラントをオーストリアにそれぞれ割譲し、フランスはアカディア・ハドソン湾地方・ニューファンドランド島などの北米植民地をイギリスへ譲渡した。ブルボン家としては、王冠ひとつを得るために数多くの領土を失う結果になった。ユトレヒト条約ではまた、イギリスがスペイン植民地に対する奴隷貿易独占権を獲得した。すなわち、イギリスは年間4,800名の黒人奴隷を30年間スペイン植民地に輸出しうるとしたのである。これは莫大な利潤を得てリヴァプールやマンチェスターに資本が蓄積されるもととなった。そしてまた、奴隷貿易の許可は事実上他の商品の貿易の許可をも意味しており、以後、30年にわたってイギリスの貿易は5割も増えつづけた。北米や西インド諸島の開拓もすすんで砂糖のほか材木、タバコ、コメの生産が激増し、これによりインドで獲得した富がイギリス社会に流れ込んで「インド成金(ネイボブ)」の発言力が大きくなった。
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