戦災復興期から高度経済成長期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:36 UTC 版)
「仙台駅」の記事における「戦災復興期から高度経済成長期まで」の解説
1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲で仙台市街は大きな被害を受けた。仙台駅では死者4人が出て駅舎も破壊され、他の駅から資材を回すなどしてバラック建ての駅舎が急造された。終戦直後の仙台駅発着の車両は、石炭不足で削減されて超過密状態で、利用客の8割が食料買い出しに向かう人々であった。その一方で、進駐軍は車両やホームを専用で留め置いて効率的運用を妨げ、その将兵の中には駅員に横暴を働く者もあった。 戦後の復興計画においては、仙台駅をより東側に移した上で駅前に公園と商業施設の設置し、さらに駅の東西を地下道で結ぶ構想があったが、駅舎や鉄道運行に必要な設備の整備が重視されたために、結局それらの構想は実行されなかった。1948年(昭和23年)に新駅舎の建設が始まり、翌1949年(昭和24年)に新駅舎が竣工した。新たに駅前広場へのメインストリートとして青葉通が敷かれ、1950年(昭和25年)に駅前の舗装が完成したことで、駅および駅前広場の復興は一段落した。駅舎は木造モルタル2階建、面積2,023.9平方メートルであった。この駅舎は仮駅舎の予定であったが、結局1972年(昭和47年)まで使用されることになった。 1951年(昭和26年)、東北子供博覧会開催時に、博覧会事務局は駅前広場の一部を11か月の期限付きで借りて建物を作った。しかし、博覧会終了後、河北新報社長菅野千代夫を社長とする河北実業株式会社が設立され、土地の賃借権を主張して返還を拒み、建物を店舗用に賃貸した。これが駅前ショウハウスである。地元有力紙の関連企業を相手にした明け渡し交渉は難航し、1972年(昭和47年)までそのままとなった。 1952年(昭和27年)には、この年に宮城県、山形県、福島県で共催された第7回国民体育大会にあわせて、仙台駅の仙石線ホームが改修された。この時までの仙台駅は線路の西側に駅舎を持ち、その反対の東側には駅舎がなかった。国体では仙台駅の東側にある宮城野原公園総合運動場が主要会場の一つとされ、ここへの交通の便を図るために、仙石線ホームの東側への移設および東口の併設が行われたのである。同年6月1日に仙石線の地下ホームへの列車の発着が廃止され、工事のための運休を経て、9月26日から仙台東口仮乗降場として使用していた設備を仙台駅仙石線ホームとして列車が運転されるようになった。これに伴い、宮城電気鉄道時代から用いられていた地下鉄道区間は旅客の連絡通路に転用され、また仙台駅仙石線ホームと近接することになった仙台東口駅は廃止された。1953年(昭和28年)になると、仙台駅の本格的な復興案が発表された。しかし、これと関連していた仙台市のビジネスセンター構想が頓挫し、仙台市の都市計画がもつれて定まらなかったために、仙台駅の復興計画も進まなかった。後の1966年(昭和41年)に、宮城県や仙台市などが仙台駅を民衆駅とする計画を国鉄に申し入れたが、両者の間で折り合いがつかずこの民衆駅案も実を結ばなかった。 戦後の復興計画の中では、仙台駅の貨客分離も計画されていた。これは1946年(昭和21年)に決まったもので、仙台駅前後の曲線区間を避ける形で長町駅と東仙台駅の間を短絡する宮城野貨物線を敷き、そこに貨物駅を設置し、仙台駅を旅客専用にするというものだった。その後、貨物取り扱いの増加により1958年(昭和33年)に工事が始まり、1961年(昭和36年)に宮城野駅が開業した。これに伴い、仙台駅は貨物の取り扱いを廃止した。 また、仙台駅は車両基地設備を併せ持つ駅だったが、仙台駅の既存の設備では増大する車両を捌くのが難しくなり、1963年(昭和38年)に仙台駅と東仙台駅の中間に仙台運転所が設置された。この車両基地は1966年(昭和41年)に全面的に完成して、仙台駅を発着する電車はここに収容されるようになった。逼迫していたのは車両収容設備だけでなく、旅客を捌くプラットホームもだった。1967(昭和42年)に仙台駅のホームが増設され、旅客扱い用の線路が5番線から7番線へ拡張された。1968年(昭和43年)には仙台駅の機関車が長町機関区に移された。仙台駅から蒸気機関車が姿を消したのはこの頃だった。 新幹線の登場まで、仙台駅に停車する急行・特急は少しずつ速くなっていった。上野駅 - 仙台駅間の所要時間でその一部を拾うと、戦時中の1945年(昭和20年)1月に急行202列車は8時間33分かかっていた。初の特別急行列車である特急「はつかり」は、1958年(昭和33年)の登場時に5時間25分で走った。1965年(昭和40年)には、東北本線の電化により常磐線を経由しない特急電車「ひばり」が現われ、4時間35分とした。1968年(昭和43年)10月のヨンサントオと呼ばれるダイヤ改正で、「ひばり」の最速列車は上野・仙台間の所要時間を3時間53分まで短縮したが、後に停車駅の増加と首都圏における列車本数の増大に伴って所要時間は再び4時間台に戻った。
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