戦災復興都市計画の特色
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「戦災復興都市計画」の記事における「戦災復興都市計画の特色」の解説
戦災復興都市計画の特徴としては土地区画整理事業を活用することとし、組合が施行を希望した場合はこれに国庫補助することを閣議で決定していることがあげられる。しかし制定された特別都市計画法では組合施行を法的に定めていないこともあって、東京を例外としてほとんどの都市では組合施行は行われていない。また減歩を、1割5分の無償規定にした。15パーセント以上の減歩に対して土地補償金を交付するものであるが旧都市計画法に比べ5パーセントの減歩負担を土地所有者に強いるものであり、1947年から施行された現行日本国憲法第29条の規定に抵触するとの疑義が出された。戦災復興院は合憲とみたが、連合軍総司令部法制局と法務府調査意見局は当時憲法違反の疑いありとの見解であった。区画整理が施行される地区の特性によっては、必ずしも減歩に見合う増進が得られない場合もあるからである。この結果、1949年の国会議決を経て、現行土地区画整理法の減価補償金規定とほぼ同様のものに改正された。 また土地利用計画を策定することとし、街路について主要幹線は大都市では幅員50m以上、中小都市では幅員36m以上として、必要に応じ50-100mの広幅員道路にし駅前広場を設けること、緑地(公園、運動場、公園道路等)を市街地面積の10%以上とし、市街地外周に緑地帯(グリーンベルト)を設けることなどが盛り込まれ、非常に理想主義的色彩が強いということが挙げられる。 戦災都市の災害対策と美観創出には緑地帯を重視し、戦災地復興計画基本方針に公園や公園道路ほか緑地を「系統的に配置せらるること」、「必要に応じて市街外周に於ける農地、山林、原野、河川等、空地の保存を図るため、緑地帯を指定し、その他の緑地と相俟って、市街地へのきつ入を図ること」と示している。このため、100メートル道路ほか、幹線道路も並木を創出されたほか、仙台市の勾当台公園や熊本市の辛島公園などのスペースや前橋市の広瀬川、芦屋市の芦屋川、神戸市の石屋川、新生田川、妙法寺川、広島市内の全河川、徳島市の新町川などの河川沿いの帯状緑地を計画し出現させる。河岸緑地帯について近年出現した姫路市の運河公園や浜松市の馬込川公園も戦災復興期の計画が元になっている。そして広幅員道路と緑地との有機的なネットワークなど、日本では今まで実現することが出来ないでいた政策が取り入れられているほか具体性も強く、道路幅員の具体的な指定や緑地面積の目標値などが基本方針の時点で織り込まれている。また、経済合理性一辺倒で計画がなされていないということも特色の一つである。高度経済成長期以降の道路計画が、ともすれば「自動車交通をいかに処理するか」ということだけを考慮して立案されていたのに対し、戦災復興で造られた道路の多くは、広い緑地帯と歩道を有し、市民の憩いの場となるように設計されている。アメニティを重視したインフラ整備が近年唱えられているが、その考え方は決してバブル期以降に現れた新しいものではなく、戦災で国土が荒廃していた復興期、もっといえば大正期に制定された街路構造令等すでに存在していた考え方であった。 県庁所在地クラスの地方都市の多くで見られる、「中心部の駅前に中小規模の駅前広場があり、そこから30-50mの道路が真っ直ぐ延び、他の道路はその広い道路を基準に碁盤の目に近い形で配置がなされている」という街区パターンが、戦前に耕地整理等を行われていない都市の多くで戦災復興によって造られることになったため、その意味で戦災復興が戦後日本の地方都市像までをも形成したことにもなる。 なお、空襲に関しては平和教育などで子供達に語ることができるが、こうした復興事業や都市計画に関しては副読本などで語られても理解しづらいというのが実情である。また大人であってもこうした復興計画が存在し、そもそも都市計画というものによって街の広幅員道路や街区が形成されるということ自体を一般によく知らないという場合もあり、戦災復興都市計画の認知度が低い要因となっている。 住宅復興についてはイギリスは全国民を対象に公営住宅を考えたが、日本では炭鉱住宅と、戦災復興院の建築職の大部分が勤務していた特別建設部が関与する米軍住宅・米軍施設の建設が主で、一般の住宅には手がつけられていない。また満州国で日本の都市計画研究者が試みた地券などの新しい考え方も、戦後の日本では公にされることがなく復興計画にとりいれられることは、ほとんどなかった。先の記述にもあるとおり、GHQや米軍は都市復興にほとんどかかわりを持たず、しかも区画整理の公共減歩は、補償なしでの財産の没収ではないか、とのクレームをつけている。これに対しては財産額として減価が無いということで当時は納得をさせている。広島を占領したオーストラリア軍は建築家のシャビィ少佐などが復興計画に若干の提案をしたりしたこともあったが、沖縄や横浜では広大な軍用地が収用され、戦後都市復興に大きな妨げとなる。 また多くの都市が罹災したため、計画策定の技官の人員が足りず、一人の人間によって復興計画が策定された都市もある。そのため土木行政は、高度経済成長期のような河川・公園・道路・建築物とそれぞれ担当部署が異なる縦割り行政による個別の整備とは違い、河川と緑地、道路と公園といった異なるものが連続性を持った形で体系的にまとめ上げられている。この後に内務省は建設省となり、土木行政は深化したものの、高度経済成長期のインフラ整備においては、各部門ごとの横のつながりはかえって弱くなったといえる。こうした人員不足等も案じて復興院は1946年(昭和21年)から各地の復興都市計画策定に建築家をも参加させ、彼らを復興院の嘱託として、各復興都市に主任と助手のペアで派遣した。このとき(1)計画図及び計画説明書(計画の基盤及案の内容)各2部を作り一部は市に残し一部は本院へ提出(2)地元の意見又は希望事項あれば本院へ提出(3)地元有識者への啓蒙 を依頼事項としている。派遣メンバーは土地の国有化などを叫び、戦後復興の都市や地域計画などに参加しようとした国土会に関係していた面々が中心で、実際東京大学建築学教室で都市計画の研究をしていた高山英華は日米開戦期には企画院の都市計画関連の仕事に関係し、それが戦後に立ち上げられる国土会のもとになってもいた。 それでも、敗戦という状況下でいち早く復興事業に取り組む体制を整えることができたのは、戦時期に防空総本部の設置などにより都市計画のスタッフが強化されていたからであるし、また事業が割と円滑に進んでいるのも関東大震災後の震災復興事業等の経験があったことも指摘されている。防空緑地などの施策や防空都市計画は戦後の復興も見据えており、建物疎開も道路予定地を中心に行われた。しかし、ヨーロッパなどでは第一次世界大戦後の戦後復興と第二次世界大戦後のそれとで復興事業の技術が進歩したが、日本ではほとんど復興技術の変化が見られなかった。イギリスでは第二次世界大戦後の1947年に制定した都市計画法で開発権の国への帰属を規定する画期的な制度を提案し、その後、保守党と労働党の政権交代により土地政策に変化はあるものの、開発を行うには許可が要るとの原則が残された。しかし、日本ではこのような土地政策に対する本格的な制度改革は行われなかった。 とにもかくにも大都市の市街地はどこも焦土と化し、戦災復興のため戦前の段階で既に繁華街となっていた都市を中心に、特別都市計画法を制定し、復興院や自治体の職員から復興建設技術協会などの民間機関までも動員して岡崎空襲#復興、甲府空襲#甲府市戦災復興都市計画、本庄村 (兵庫県武庫郡)#戦後復興、沖縄の規格家など日本各地の都市復興から、大阪市高速度鉄道協議会路線網改定(戦災復興院主催)や小田急1600形電車といった戦災復興車、長岡市営無軌条電車のような戦災復興のための公営自動車事業から相鉄2000系電車 相鉄3000系電車など戦災復興の第一線で活躍する交通手段と網整備や、セイノーホールディングス#戦災復興〜長距離定期貨物便〜輸送立国などの輸送復興に力をいれ、高松市のように高松空襲で市街地の約80%が消失し戦災復興計画を経て戦災後10年間の市街地の急発展を興す。この他、豊橋公園前停留場, 市役所前停留場 (愛知県) といった戦災復興に伴い国鉄は戦災復興を地元と共同で行うことを目論み民衆駅や東京駅の戦災復興を次々成し遂げ、さらに地方では高松市立中央球場のように戦災復興のシンボルとして市民に愛された球場や大垣競輪場、長崎市営ラグビー・サッカー場(旧長崎市営競輪場)、長居公園の競馬なども、戦災復興事業の推進とを目的に行われていく。長岡まつりは長岡空襲からの復興を願い翌1946年8月1日に行われた戦災復興祭が起源である。
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