戦災復興都市計画の策定
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「戦災復興都市計画」の記事における「戦災復興都市計画の策定」の解説
明治時代の銀座煉瓦街や市区改正計画から始まった日本の都市計画制度は、1923年(大正12年)の関東大震災を受け、大きく展開する。このとき帝都復興院によって策定された帝都復興計画(関東大震災後の東京市の復興都市計画)では、土地区画整理事業による被災区域の面的整備が実施され、都市計画に新しいページを開くこととなった。 関東大震災の復興から20年も経たないうちに、今度は日本全国の主要都市が太平洋戦争の空襲により焦土と化した。空襲被害は、215都市、面積64500haに及び、日本の主要都市は壊滅的な打撃を受けた。終戦の直前、当時の内務省国土局計画課長で、後に運輸大臣を務めることにもなる大橋武夫は、内務省のスタッフに対して戦災復興都市計画の立案開始を命じた。内務省は終戦とともに戦災地復興計画基本方針を主要都府県に内示する。 復興都市計画策定では、2段階に分けて、第1回は青森、水戸、宇都宮、前橋、伊勢崎、長岡、甲府、岡山、長崎、佐世保、下関、八幡、鹿児島などで、第2回は広島、呉、千葉、銚子ほかに中央から職員の派遣がなされたほか、疎開跡地を公共用地として確保するための都市計画決定を指示し、戦災復興事業に影響しないように建築抑制を行うこととした。 また、中央政府の指示を待たずに、独自に戦災復興計画に早期着手した都市もある。富山では1945年(昭和20年)8月1日の戦災直後に県知事が復興都市計画の立案を命じ、敗戦までに一定の幹線道路計画が立案されていた。東京では同年8月27日頃に都市計画局が「帝都再建方策」を発表している。また、岐阜では同年8月中に、復興は必ずやらなければならないし、やるとすれば事業手法は土地区画整理であるという見通しを立てて計画作成に着手し、名古屋も同年9月には区画整理のための測量に着手している。(戦前・戦中を通じ都市計画愛知地方委員会事務局には、石川栄耀や兼岩伝一らが勤務し、区画整理研究会という組織をつくり『区画整理』という雑誌を発行していた。その影響で愛知・岐阜・静岡は当時土地区画整理の先進地域であった。)この他、高知、長岡、佐世保、豊橋、桑名等も早い時期に計画作成に着手したとされている。
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