「マッカーサー道路」とは? わかりやすく解説

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「マッカーサー道路」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 05:02 UTC 版)

東京都市計画道路幹線街路環状第2号線」の記事における「「マッカーサー道路」」の解説

都市計画道路のうち、2003年平成15年)に事業化され、2014年平成26年3月29日開通した虎ノ門から新橋に至る全長 1.4 km区間は、太平洋戦争後約60年間に渡って工事着工凍結されていた。 日本の降伏1945年昭和20年〉)後、日本占領軍の一部隊・アメリカ軍駐日アメリカ合衆国大使館から竹芝桟橋に至る幅100 m大道路を計画しているとの誤解がなされ、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーの名前から「(幻の)マッカーサー道路」としばしば俗称されてきたが、これは歴史的な事実照らして全くの誤用であった実際に1923年大正12年〉の関東大震災後後藤新平らによって策定され帝都復興計画において、この区間と全く同一ルートを通る都市計画道路計画されていたが、帝国議会など反対によって計画廃止されている。その後昭和10年代末に、内務省国土局都市計画課により計画復活し太平洋戦争中には空襲による延焼を防ぐ空地帯の確保のため、ほぼこのルート沿う形で防空法に基づく建物疎開が行われている。終戦後には、この空地帯を利用する形で幅員100 m環状2号線として都市計画決定がされている。この間マッカーサー率いGHQ計画に全く関係していないばかりか、「敗戦国立派な道路必要ない」「これでは敗戦国ではなく戦勝国記念道路のようだ」と、むしろ反対の立場だった。 環状2号線始めとする100m道路都心部縦横走らせるという東京戦災復興都市計画は、当時東京都建設局都市計画課長であった石川栄耀戦前から考案していたプランを、1945年昭和20年12月閣議決定された「戦災復興基本方針に基づきそのまま法定計画として採用したのである当初計画では環状2号線は全区間幅員100mとして都市計画決定され全国24計画され幅員100 m都市計画道路うちのひとであった1950年昭和25年3月幅員を40mへ縮小)。これらの経緯からして、本来であれば「マッカーサー道路」ではなく後藤新平道路」と呼ぶべきだとの意見もあった。 この区間商業地としての価値高かったことから用地買収難航長らく計画頓挫した状態であったが、1989年平成元年)の法改正によって立体道路制度創設され道路上建物建てることが可能になったことから再開発事業再開された。事業進捗に際して新たな愛称決定するため地元地権者などから構成される委員会組織され2013年平成25年2月9日より同区間地上部分の道路愛称について公募行った結果同年5月31日に「新虎通り」を地上街路部の道路愛称決定した新たな通称名決定したにもかかわらず開通時複数報道では「マッカーサー道路」の俗称用いられた。同年4月1日地下トンネル区間を含む有明-虎ノ門間について「環二通り」の通称設定された。

※この「「マッカーサー道路」」の解説は、「東京都市計画道路幹線街路環状第2号線」の解説の一部です。
「「マッカーサー道路」」を含む「東京都市計画道路幹線街路環状第2号線」の記事については、「東京都市計画道路幹線街路環状第2号線」の概要を参照ください。

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