「マッカーサー道路」
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「東京都市計画道路幹線街路環状第2号線」の記事における「「マッカーサー道路」」の解説
都市計画道路のうち、2003年(平成15年)に事業化され、2014年(平成26年)3月29日に開通した。虎ノ門から新橋に至る全長 1.4 kmの区間は、太平洋戦争後約60年間に渡って工事の着工が凍結されていた。 日本の降伏(1945年〈昭和20年〉)後、日本占領軍の一部隊・アメリカ軍が駐日アメリカ合衆国大使館から竹芝桟橋に至る幅100 mの大道路を計画しているとの誤解がなされ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーの名前から「(幻の)マッカーサー道路」としばしば俗称されてきたが、これは歴史的な事実に照らして全くの誤用であった。 実際には1923年〈大正12年〉の関東大震災後に後藤新平らによって策定された帝都復興計画において、この区間と全く同一のルートを通る都市計画道路が計画されていたが、帝国議会などの反対によって計画が廃止されている。その後昭和10年代末に、内務省国土局都市計画課により計画が復活し、太平洋戦争中には空襲による延焼を防ぐ空地帯の確保のため、ほぼこのルートに沿う形で防空法に基づく建物疎開が行われている。終戦後には、この空地帯を利用する形で幅員100 mの環状2号線として都市計画決定がされている。この間、マッカーサーの率いるGHQは計画に全く関係していないばかりか、「敗戦国に立派な道路は必要ない」「これでは(敗戦国ではなく)戦勝国の記念道路のようだ」と、むしろ反対の立場だった。 環状2号線を始めとする100m道路を都心部に縦横に走らせるという東京の戦災復興都市計画は、当時の東京都建設局都市計画課長であった石川栄耀が戦前から考案していたプランを、1945年(昭和20年)12月に閣議決定された「戦災地復興基本方針」に基づきそのまま法定計画として採用したものである。当初計画では環状2号線は全区間で幅員100mとして都市計画決定され、全国に24本計画された幅員100 mの都市計画道路のうちのひとつであった(1950年〈昭和25年〉3月に幅員を40mへ縮小)。これらの経緯からして、本来であれば「マッカーサー道路」ではなく「後藤新平道路」と呼ぶべきだとの意見もあった。 この区間は商業地としての価値が高かったことから用地買収が難航、長らく計画は頓挫した状態であったが、1989年(平成元年)の法改正によって立体道路制度が創設され、道路上に建物を建てることが可能になったことから再開発事業が再開された。事業の進捗に際して新たな愛称を決定するため地元地権者などから構成される委員会が組織され、2013年(平成25年)2月9日より同区間の地上部分の道路愛称について公募を行った結果、同年5月31日に「新虎通り」を地上街路部の道路愛称に決定した。新たな通称名が決定したにもかかわらず、開通時の複数の報道では「マッカーサー道路」の俗称が用いられた。同年4月1日、地下トンネル区間を含む有明-虎ノ門間について「環二通り」の通称が設定された。
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