東夏国の滅亡
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東夏国と高麗国の関係が悪化し始めていた1226年(正大3年、丙戌)6月、これを好機と見た金朝では遼東行省のジェブゲ(哥不靄)に改めて蒲鮮万奴の討伐を命じていた。ジェブゲと東夏国がどのような戦いを繰り広げていたかは不明であるが、モンゴル帝国の側でも早くからこの2つの勢力を危険視していた。 チンギス・カンが死去した翌年の1228年(正大5年、戊子)、「金の平章ジェブゲが遼東で活動していること」と「蒲鮮万奴が開元で自立していること」を理由に、サリクタイ・コルチという将軍が遼東方面に派遣されることになった。この年ははるか西方のイランでジャラールッディーン・メングベルディー討伐のためにチョルマグンが派遣された年でもあり、サリクタイとチョルマグンは「一度征服した地域で蠢動する反攻勢力を討伐する」という共通の目的を持って派遣された「タンマチ(タマ軍)」であると考えられている。なお、このサリクタイ軍は耶律留哥の息子の耶律薛闍を始め、移剌買奴、王栄祖らチンギス・カンの時代よりモンゴル帝国に仕える譜代の契丹人将軍が主体となっていた。1229年(正大6年、己丑)にはウヤル元帥や王栄祖らを率いたサリクタイが遼東に入り、蓋州・宣城等の十城余りを攻略し、ジェブゲも敗走して死んだため、モンゴル帝国は遂に遼東一帯を征服した。 しかし、遼東を平定したサリクタイは東夏国の方面には進まず、高麗国に進軍することになった。1231年(正大8年、辛卯)に高麗国に現れたサリクタイ軍は高麗に対して「汝の国がもし下らなければ、我が軍は引き返すことがないだろう。下れば、我が軍は東夏に向かって去るだろう」と述べており、当初からサリクタイ軍は遼東→高麗→東夏の順で進軍する予定であったようである。ところが、一旦は降伏を受け容れたかに見えた高麗がすぐに叛旗を翻したことにより、1232年(正大9年、壬辰)にサリクタイは水州の処仁城攻めで流れ矢に当たり戦死してしまい、その間の事情は高麗より書簡で東夏国に伝えられた。 折しも、サリクタイの遼東・高麗侵攻と同時進行で進められていた金朝侵攻は1232年の三峰山の戦いの戦いを経て大勢が決しつつあり、オゴデイ・カアンを含むモンゴル軍本隊は北上してモンゴル高原に帰還しようとしていた。ここに至り、1233年(天興2年、癸巳)にモンゴル諸王の議論(クリルタイ)の末、オゴデイの王子のグユクと王族のアルチダイを主将とする正式な遠征軍を蒲鮮万奴に対して派遣することが決められた。グユクとアルチダイ、そしてかつて遼西を席巻したムカリの孫のタシュら率いる軍団は1233年9月に東夏国に侵攻し、東夏国は完全に滅亡した。蒲鮮万奴は生け捕りにされたが、その後の消息は史料上に記されていない。ただし、蒲鮮万奴がモンゴル帝国に質子(トルカク)として差し出したテゲ・コルチは引き続きモンゴルの有力武将として重用されている。
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