東夏国の滅亡とは? わかりやすく解説

東夏国の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:54 UTC 版)

蒲鮮万奴」の記事における「東夏国の滅亡」の解説

東夏国高麗国の関係が悪化し始めていた1226年正大3年丙戌6月、これを好機見た金朝では遼東行省のジェブゲ(哥不)に改め蒲鮮万奴討伐命じていた。ジェブゲと東夏国どのような戦い繰り広げていたかは不明であるが、モンゴル帝国の側でも早くからこの2つ勢力危険視していた。 チンギス・カン死去した翌年1228年正大5年戊子)、「金の平章ジェブゲが遼東活動していること」と「蒲鮮万奴開元自立していること」を理由に、サリクタイ・コルチという将軍遼東方面派遣されることになったこの年ははるか西方イランジャラールッディーン・メングベルディー討伐のためにチョルマグン派遣された年でもあり、サリクタイチョルマグンは「一度征服した地域蠢動する反攻勢力討伐する」という共通の目的持って派遣された「タンマチタマ軍)」であると考えられている。なお、このサリクタイ軍は耶律留哥息子耶律薛闍始め移剌買奴王栄祖チンギス・カンの時代よりモンゴル帝国仕え譜代契丹人将軍主体となっていた。1229年正大6年己丑)にはウヤル元帥王栄祖らを率いたサリクタイ遼東入り蓋州宣城等の十城余り攻略し、ジェブゲも敗走し死んだため、モンゴル帝国遂に遼東一帯征服した。 しかし、遼東平定しサリクタイ東夏国方面には進まず高麗国進軍することになった1231年正大8年辛卯)に高麗国現れサリクタイ軍は高麗に対して「汝の国がもし下らなければ我が軍は引き返すとがないだろう。下れば、我が軍東夏向かって去るだろう」と述べており、当初からサリクタイ軍は遼東高麗東夏の順で進軍する予定であったようである。ところが、一旦は降伏を受け容れたかに見えた高麗がすぐに叛旗翻したことにより、1232年正大9年壬辰)にサリクタイ州の処仁城攻め流れ矢に当たり戦死してしまい、その間事情高麗より書簡東夏国伝えられた。 折しもサリクタイ遼東高麗侵攻同時進行進められていた金朝侵攻1232年三峰山の戦い戦い経て大勢決しつつあり、オゴデイ・カアンを含むモンゴル軍本隊北上してモンゴル高原帰還しようとしていた。ここに至り1233年天興2年癸巳)にモンゴル諸王議論クリルタイ)の末、オゴデイ王子グユク王族アルチダイ主将とする正式な遠征軍蒲鮮万奴に対して派遣することが決められた。グユクアルチダイ、そしてかつて遼西席巻したムカリの孫のタシュ率い軍団1233年9月東夏国侵攻し東夏国は完全に滅亡した蒲鮮万奴生け捕りにされたが、その後消息史料上に記されていない。ただし、蒲鮮万奴モンゴル帝国に質子(トルカク)として差し出したテゲ・コルチ引き続きモンゴルの有力武将として重用されている。

※この「東夏国の滅亡」の解説は、「蒲鮮万奴」の解説の一部です。
「東夏国の滅亡」を含む「蒲鮮万奴」の記事については、「蒲鮮万奴」の概要を参照ください。

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