事件後から現在まで
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「高雄市立高雄高級中学」の記事における「事件後から現在まで」の解説
1948年、林一鶴は台湾省政府教育庁に異動し、教育庁監察官であった王家驥が新たに校長となった。彼は福建省から台湾に移った際に、秘密警察から「左派思考」の疑いをかけられ、しばしば諜報部から秘密裏に監視されていたが、そのような状況下でも、彼は高雄中学の教育環境と教師の質の向上に努め、1952年2月20日には学校発行の『台灣省立高雄中學校刊』を、同年3月12日には『雄中青年』を創刊した。彼の在任中に高雄中学は科学教育学校に指定され、教育庁から科学教育推進校や教育革新校に指定された。その後の何度かの教育制度の変遷を経て、1970年8月に「台湾省立高雄高級中学」と改称された。 1972年に校長に着任した熊惠民は、当初は自由な校風に馴染めず学生と対立したこともあったが、やがて理解し合えるようになった。彼は在任中に『雄中導報』を創刊し、弘毅樓(会議場)、工芸館、物理館などの建物を建設した。 1977年7月25日、台風の影響を受けて敷地内のいくつかの建物が甚大な被害を受けた。 1979年7月1日、高雄市は直轄市に昇格すると同時に、管轄が教育庁から高雄市政府教育局に変更され、現在の名称である「高雄市立高雄高級中学」に改称された。 1980年9月1日、朱迺武が校長に就任した。彼の在任中であった1986年、市の教育委員会から音楽教育の研究授業の対象校に命じられ、音楽コースに女子生徒が入学しそれまでの男子校から男女共学校となった(ただし前述の通り、現在でも女子生徒の割合は低い)。また、1989年には毎週土曜日の私服通学を解禁した。この頃には国際教育交流活動への取り組みも始め、1983年12月10日に、韓国・ソウル市瑞草区の私立尚文高等学校と姉妹校となり、交換留学を開始した。 1988年10月24日、生徒中心の生徒会が設立され、生徒会長と副会長が学生によって選出された。 1991年2月1日、師蔚霞が校長に就任した。彼の在任中、台湾では社会運動が強まり、1993年3月14日には学校周辺で民主進歩党支持者と新国民党連線(中国語版)の間で闘争が起こった。 また、1992年8月1日は男女共学の体育コースが開設された。1995年1月、陸上競技用のトラックとプールが完成した。 1995年2月1日、朱迺武が再び校長に就任した。在任中、彼はテニスコートの整備や学校新聞の創刊、校史室の移転など様々なことを行った。中でも日本統治時代から使用されてきた赤レンガの講堂の取り壊しは物議を醸し、一部の卒業生からの抗議を受けた。 1999年8月1日、潘輝雄が校長に就任した。当時社会が学校に求めていた教育改革に合わせ、情報教育や人文・地域教育にも積極的に取り組み始め、生徒を外部の大会に出場させるようになった。 2006年8月1日、黃秀霞が校長に就任した。彼女は指導方針を「全人教育」とし、「事実に基づき真実を求め、卓越性を追求して実力とし、法律を遵守し、自由で民主的な学習スタイルを築き、正しい価値観で学生の精神を養い、感謝をもって生命を尊重する。」という目標を掲げた。2007年には高雄市立歴史博物館と協力して「南国の十字星 - 高雄高級中学特別展」という展示会を開催し、文化・芸術イベントの「紫檀花文芸季」を開催した。 2013年8月1日、謝文斌が校長に就任。 2020年8月24日、謝文斌が高雄市教育委員長への昇進に伴い、顏銘賢が代理校長に就任。 2021年8月1日、莊福泰が校長に就任。
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