公家社会の家門確立と昇進経路の変化
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「准大臣」の記事における「公家社会の家門確立と昇進経路の変化」の解説
准大臣への補任は、大臣になれる資格がありながら空席がないために大臣になれない者を慰撫する目的で運用されたとする和田英松の『官職要解』の解説が長らく通説となっていた。確かに堀川基具は准大臣を足がかりに、正応2年(1289年)8月29日には晴れて太政大臣に昇進している。ところが、問題はその前年に関白二条師忠の左大臣辞任に伴う玉突き人事によって内大臣に空席が生じたのにも関わらず、後任に任じられたのは基具ではなく、大納言で同門の久我通基だったことである。また、基具の後に准大臣となった者の昇進を見てみると、次の土御門定実は権大納言2名に内大臣昇任で先を越され、更にその次の中院通頼は3名に大臣昇任で先を越された挙句に自身はとうとう大臣になれずに出家している。つまり通説とは異なり、大臣に空席が生じても准大臣が自動的に大臣に昇進できるわけではなかったのである。 あくまで一説ではあるが、鎌倉時代後期に宣下のあった准大臣のすべてが摂関家庶子か清華家庶流出身者であり、かつその半数以上が堀川基具を出した村上源氏中院流の庶流出身者であったことである、とする見方がある。それに拠れば、当時の公家社会では家格の峻別と固定化が進み、嫡子・嫡流を「重代」「譜第」の家柄と位置づけて庶子・庶流との区別を明確にし、嫡子・嫡流に庶子・庶流を統制させて、その昇進にも格差をつけるようになっていった(家門の確立)。その一方で徳政推進の観点から昇進については能力を重視すべきとする意見も論じられた。この矛盾した二つの主張の妥協として導入されたのが'准大臣であったと考える説がある。すなわち、摂関家や清華家の嫡子・嫡流であれば大納言の次に大臣の座に空席があれば直ちに大臣に昇進できたが、庶子・庶流は従一位に叙せられて准大臣宣下を受け更に相当の時間を経ることでようやく大臣に任じられる、というルール・格差である。これによって「直系」「嫡子」あるいは「重代」「譜代」を円滑に昇進させ、なおかつ有能な「庶子・庶流出身者」の登用を完全には排除しない仕組みが形成された、とする説である。 いずれにしても、このときの堀川基具に対する待遇が、その後に続く准大臣の先例となった。「准大臣の宣下を受けるための必須の要件」はすなわち従一位(以上)であることおよび大納言または権大納言を経ている(前大納言)ことの2点である。また大納言・権大納言は、そのほとんどが前大納言である。准大臣にするために、わざわざ従一位に叙したり大納言を辞任したりした例も少なくない。
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