公山の戦い
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公山の戦い(コンサンのたたかい)は新羅救援に向かった高麗軍と迎撃する後百済軍の戦い。戦場は公山(現在の慶尚北道大邱広域市東区八公山自然公園)。後百済軍の徐羅伐侵攻を知ったワン・ゴンは、救援のために松嶽から5千を率いて徐羅伐へ向かう。さらに大耶城のシン・スンギョムらも5千を率いて徐羅伐に向かった。ワン・ゴンが徐羅伐に向かうことを予期していた後百済の軍師チェ・スンウは、徐羅伐の途上にある公山に兵を伏せて、これを待ち受ける。 高麗軍の指揮官はワン・ゴン、シン・スンギョム、ポク・チギョム、キム・ラク、キム・オン、チョン・イガプ、チョン・ウィガプ、パク・スムン、パク・スギョン、シンバン。後百済軍の指揮官はキョンフォン、チェ・スンウ、エスル、シンドク、サングィ、ソダル。兵力は高麗軍1万、後百済軍1万。 後百済軍は公山に偽の陣営を築き、高麗軍を誘引する。高麗軍は公山に偵察兵を幾度も送り、異常がないことを確認した。これを聞いたワン・ゴンは、後百済軍はまだ徐羅伐にいると判断し、公山に陣営を敷いた。ワン・ゴンはポク・チギョムの進言に従い、軍を2手に分けた。川岸にシンバン率いる第1軍を置き、ワン・ゴン率いる第2軍を公山に配置した。連日の急行軍で疲弊していた高麗軍は兵を休養させていた。これを見た後百済軍のエスル、ソダルは川岸の高麗軍に夜襲を仕掛けた。油断していた高麗軍は成す術もなく、第1軍はシンバンが戦死するなど壊滅状態になる。ワン・ゴン自ら救援に向かい、一騎討ちでエスルに手傷を負わせ、後百済軍を撃退させる。しかし、ワン・ゴンが率いた5千のうち、3千が戦死、1千が負傷して戦闘不能となり、残兵が1千しかない状態で四方を包囲されてしまう。 シン・スンギョム軍も公山のワン・ゴンに合流するため行軍していたが、途中の桐藪で伏せていたシンドクによって退路を断たれる。シン・スンギョム軍は進軍してワン・ゴン軍との合流を果たす。高麗軍は公山で後百済軍に包囲された形になり、2手に分かれて包囲網を突破することにした。第1軍はシン・スンギョム、キム・オン、パク・スムン、パク・スギョンが率い、最前線に立って正面突破を図り、第2軍はワン・ゴン、ポク・チギョム、キム・ラク、チョン・イガプ、チョン・ウィガプらが率い、後方で機会を窺いながら包囲を突破する作戦を採る。第1軍は後百済軍のエスル、サングィ、ソダルと戦った。第1軍は奮闘するが、次々と増援されていく後百済軍に徐々に押され、包囲されてしまう。キム・オンはエスルとの一騎討ちに敗れて戦死し、第1軍は追い詰められる。第2軍は後方からの脱出を狙って進軍するが、途中の峡谷に潜んでいたシンドク率いる5千の兵が立ちふさがる。シンドクは火矢・丸太・火砲をもって第2軍を妨害する。第2軍は一方的にやられ、撤退する。後百済軍は一旦退却し、第1軍と第2軍は再び合流して本陣へと戻った。この戦いで高麗軍の残兵は2千を割ってしまう。進退窮まった高麗軍は、シン・スンギョムがワン・ゴンの鎧を着て、ワン・ゴンの馬に乗って後百済軍の注意を引き付けている間に、ワン・ゴンは雑兵に変装して脱出するという作戦を立てた。ワン・ゴンは、かろうじて松嶽(開城)に帰還できたものの、シン・スンギョムとキム・ラクは戦死した。
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