公州道(第34連隊)
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一方、公州道方面における遅滞戦闘を命じられた第34連隊は、第3大隊が天安の戦いで壊滅したことから、その戦力はアイレス中佐の第1大隊のみであった。第1大隊は、M24軽戦車 4両および工兵D中隊の支援を受けて、地形障害を活用しつつ、待ち伏せ攻撃と離脱を繰り返して、効果的な遅滞戦闘を展開していたが、11日午後、ついに公州北側の水村里付近で第4師団に捕捉され、軽戦車のうち3両を喪失する損害を受けた。 しかし、第34連隊を攻撃していた北朝鮮軍第4師団は、開戦以来2週間以上にわたって攻撃を続けていたうえに、アメリカ空軍の阻止攻撃に曝されていたことから、疲労と損害がかなり蓄積しており、戦闘力はかなり減耗していたことから、第34連隊は離脱に成功した。 7月12日午後、第34連隊は大田で再編成した第3大隊と合流し、錦江線の守備についた。
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公州道(第34連隊)
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公州道正面においては、第34連隊が引き続き防御に当たった。連隊はアイレス大隊を機動予備としての機動防御を構想したが、機動防御に必要な通信機材は不足していた。さらに、同連隊が車嶺山脈において適切な遅滞戦闘を展開していたことによって見過ごされていたが、この遅滞戦闘によって連隊全体が疲弊しており、深刻な士気の低下が発生していた。北朝鮮軍第4師団は、大坪里正面に配置された新鋭の第19連隊を避けて、第34連隊の守る公州道正面における渡河を計画した。アメリカ軍は、民間船や筏材など渡河資材を全て破棄したものと考えていたことから、北朝鮮軍が渡河するはかなりの時間を要するものと見ていた。しかし実際には、13日午前中に砲兵と戦車を河岸に推進、午後より南岸の米軍陣地への砲撃を開始し、14日朝より分散渡河を開始した。この際、連隊長代理(ワドリングトン中佐)は次の遅滞陣地予定地の偵察を行っており、機動打撃部隊長(アイレス中佐)も偵察を行っていた。 北朝鮮軍第4師団は8時からアメリカ軍の防御陣地に砲撃し、第5連隊と第18連隊で公州正面に攻撃させ、第16連隊は検詳里一帯で密かに渡河していた。8時から9時30分までに約500名の部隊が渡河して浸透した後、後方の第63砲兵大隊を襲撃し、退路を遮断しようとした。 渡河を受けて、第34連隊L中隊(スチイス中尉)は無断退却し、これによって第63野砲兵大隊は側面を開放されてしまい、午後1時30分ごろより攻撃を受けて蹂躙され、全砲(10門)と136名の兵員を喪失した。ワドリングトン中佐は、午後4時ごろにこのことを知り、アイレス大隊に対して野砲兵大隊の救援を命じた。アイレス大隊はただちに救援に向かったが、現場に到着するとともに急射を受けた。夜も近かったことから、一挙に論山に後退した。これによって14日中に錦江線は突破され、大坪里正面の第19連隊は左翼を開放されてしまい、京釜本道正面と公州道正面の部隊を連携させつつ大田に後退させるという、ディーン少将の構想は、早々に破綻してしまった。師団の戦線が一挙に崩壊することを警戒したディーン少将は、各隊に対して、別命あるまで現在地を固守するよう命じた。
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