しかの‐ぶざえもん〔‐ブザヱモン〕【鹿野武左衛門】
鹿野武左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/25 16:44 UTC 版)
鹿野 武左衛門(しかの ぶざえもん )は、落語家。
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本名 | 安次郎 |
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生年月日 | 1649年 |
没年月日 | 1699年9月6日 |
主な作品 | |
座敷仕方咄 | |
鹿野 武左衛門(しかの ぶざえもん、1649年 - 1699年9月6日)は、江戸時代前期の落語家。江戸落語の祖、大坂難波の出身とも京の出身とも。本名は安次郎と言われている。
江戸に出て堺町や長谷川町で塗師をしていたが、芝居小屋や風呂屋で身振り手振りでおもしろおかしく聴かせる「座敷仕方咄」を始めた。
当時1693年(元禄6年)コレラが流行し1万数千人以上が死亡した、南天と梅干の実が良く効くという風評が広がり、めぐりめぐって鹿野はこの事件に連座して召し捕られ大島に流罪(島流し)になる。
現在の「武助馬」を演じていたとされる。
出典
関連項目
鹿野武左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 20:10 UTC 版)
落語は当初「落とし噺」といって落ちのある滑稽なものを指し、江戸時代前期に辻や寺社の一画(上方)、座敷等(江戸)で人びとを集めて噺を聞かせたのが落語家(噺家)の始まりとされている。 京都では露の五郎兵衛が、大坂で米沢彦八が現れて大道で人気を博したころ、江戸では大坂出身で塗師職人だった鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋、あるいは酒宴など様々な屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始めて評判となった。 貞享3年(1686年)、武左衛門の著した咄本『鹿の巻筆』が刊行された。五郎兵衛や彦八の咄本にくらべ一話一話が長く、内容も込み入ったものとなっており、これが江戸落語の基礎となったといわれている。また、時期をほぼ同じくして三都で活躍したこの3名は、いずれも不特定多数の観客から収入を得ていることから噺家の祖とされており、江戸時代における第1次落語ブームの火付け役となった。 ところが、武左衛門が些細なことから連座して元禄年間に伊豆大島に流罪に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気はいったん下火となってしまった。 ただ、宝暦(1751年-1763年)から明和(1764年-1771年)にかけては町人層における学習熱の高まりから中国起源の笑話の訓読ブームが起こり、明和から安永(1772年-1780年)にかけては『鹿の子餅』『聞上手』といった、前代よりも洗練の度を増した咄本が刊行されて、庶民の娯楽としての落語の成立に大きな影響をあたえた。
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