鹿野武一の死・『サンチョ・パンサの帰郷』の上梓
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「石原吉郎」の記事における「鹿野武一の死・『サンチョ・パンサの帰郷』の上梓」の解説
1955年(昭和30年)は石原にとって大きな事件があった年である。 事件とは、友人の鹿野武一が同年3月に心臓まひで急死したことである。鹿野は1953年(昭和28年)12月に復員し、その後1954年(昭和29年)から新潟県内の診療所で薬剤師として勤め始めていたが、心身の消耗が激しく数ヶ月で辞めていた。鹿野の死は石原には大きな事件だった。石原がシベリア抑留に関するエッセイを書いたのは結局のところ鹿野の存在と死が理由であるとの論すらある。鹿野との思い出に関して石原はいくつかエッセイを残しているが、「ペシミストの勇気について」が鹿野に関する主要な文章である。 ただ、石原から見た鹿野と、鹿野の実像の間には大きなかい離がある。実際には石原は鹿野の中に、自分の目指す一種の理想を見ていたようである。 1956年(昭和31年)4月、石原は弟の紹介で知った女性と結婚した。この女性もシベリア抑留と関係のあった人で、前夫をシベリア抑留によって亡くしていた。結婚式は内輪であげその後団地で暮らしたが、前年から石原の勤めていた会社がつぶれて再び失業し、生活は苦しかった。シベリア抑留時代の友人のつてで、1958年(昭和33年)夏に、設立されて間もない社団法人「海外電力調査会」にロシア語の能力を買われて臨時職員として採用された。その後1962年(昭和37年)に正規職員として採用されて、以後は亡くなるまでこの職にあった。 一方、『ロシナンテ』の方も活動は次第に低下していった。 活動開始から約1年半後の1956年末には隔月刊から季刊へ移行し、1959年(昭和34年)に19号で終刊した。なお、石原は、『ロシナンテ』で活動した詩人の中で優れた詩を残した人物として、好川誠一、勝野睦人、粕谷栄市の3人をあげている。『ロシナンテ』同人の多くが創作の世界から去っていったが、石原は詩作を続けた。石原は『ロシナンテ』に代わって、近江地方を中心に活動していた詩誌『鬼』に参加するようになった。 1963年(昭和38年)12月、石原は第1詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(思潮社刊、現代詩人双書) を上梓する。印刷の終わった詩集を受け取りに思潮社にやってきた石原は「これは私の遺骨ですよ」「カタコト、音がしますかね」と言って、詩集を10冊ほど風呂敷に包んで持って返り、その一部は知人に配った。題名については、石原が違和感を持つ社会に抗う自身を、ドン・キホーテの従者「サンチョ・パンサ」になぞらえてシベリアから日本へ帰郷したことを意味している、ということはしばしば言われることである。『サンチョ・パンサの帰郷』は翌年の1964年(昭和39年)、第14回H氏賞 (現代詩の新人賞にあたる) を受賞した。 1966年(昭和41年)にはH氏賞選考委員になるなどしたものの、この時期しばらくの間は石原に大きな事件はなかったが、1967年(昭和42年)秋に石原の「肉親へあてた手紙」が同人詩誌『ノッポとチビ』33号に掲載され、このことがきっかけで石原の生活は大きく変わる事になる。
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